三日月の森・1

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三日月の森



「来てくだされ、来てくだされぃっ」
 この世の終りがくるとでもいうのか切羽詰った金切り声が外から聞こえ、執務室で書類に目を通していたトラビスは、面白がっているようないたずらっぽい光を宿した茶色い目を上げた。
「また、村人たちの戯言でしょう」
 トラビスのお目つけ役であるドナンが、ため息混じりに言う。
「まったく、ランドルの連中は税もろくに払えないくせに、しょっちゅう、問題を持ち込んでくる」
 いらだたしげにくすんだ灰色の頭を振り、ドナンはぼやいた。それへ、トラビスは仕方ないと肩をすくめる。
「こんな荒れた土地で、税を取ろうというほうが間違ってるよ」
 トラビスの言うとおり、都から遠く離れたこのランドルには荒野と未開の地しかなく、これといった特産物もなかった。都で洗練された暮らしをしていた者にとっては、非常に不便で退屈な場所でしかない。
「そうでしょうか。すぐそばには、こんなにも生い茂った森が広がっているというのに、村人たちは魔物が住んでいるのどうのと言って、開拓しようともしない。まったく、こんなところに赴任されることになったのも、トラビス様が宮廷で不埒な生活をしておられたからですよ」
 急に矛先がむき、トラビスは叱られた子供のように首をすくめた。トラビスの父の親友であるドナンは、トラビスのことを赤ん坊のときから知っていて、自分の息子のように思っている。父が治めている領地のテイルにいたときは、父が二人いるようだと、トラビスはよくぼやいたものだ。
「もうざんざん聞かされたよ。そんなに言うなら、父に改心したからテイルに戻しても大丈夫だと伝えてくれればいいのに。そのためにおまえは一緒にきたんだろ」
「だめです」
 ドナンは、反論の余地がないほどにきっぱりと言った。
「テイルに戻れば、すぐにこれまでと同じような暮らしに戻ることが目に見えています。あなた様が本当に改心したときが、テイルにもどるときです」
 お目付け役を言いつかるだけにドナンは、トラビスの性格をよく知り尽くしている。まさしく彼の言う通り、トラビスは生まれ育った領地に戻ったら、これまで通り、一晩中、舞踏会で踊り酒場で飲み、火遊びをするような華やかな夜の生活をするつもりだった。
「信用ないんだな、まったく」
 自分の考えを見透かされたと知りながら、トラビスはわざとらしく嘆息する。それから、自分の名前が呼ばれたような気がして、未だに騒がしい外へと目をやった。城門のほうで、絡まった白と黒の糸を頭にのせたかのような髪をした老婆が、門番と言い争っている。どうやら、なにがなんでも領主に会いたいと老婆が騒いでいるらしい。
「では、信用と取り戻すために、まじめにランドルの領主として、仕事にとりかかろうか。門番は、あの老婆を手に余しているようだ」
 それまで自然のままに垂らしていた鳶色の髪をリボンで結び、領主らしく見えるように身なりを正すとトラビスは、どことなく嬉々として外へ向かって行った。懲らしめのために赴任されたこの地ではあったが、実は彼にとって、なにもかもが目新しく物珍しく楽しくてならなかったのだ。陰謀策謀が交錯する都会にいたのでは、精霊を信じる純朴な村人たちや未知の生物の存在と出会うことなど、決してなかっただろう。
「なにがあったんだ」
 トラビスが現れると、薄汚い老婆にてこずっていた門番は、見るからにほっとした。
「この老婆が、世界が滅びてしまうから、トラビス様に会わせろなどと」
 門番は困惑げに、老婆を指差した。今、ランドルの城に住んでいるのは、ほとんどが都会であるテイルからきた者たちだ。彼らが田舎特有の迷信深さに戸惑うのも、当然のことと言える。
「へぇ、今度はなんで滅びるんだい? 大事にしていた水晶の玉が割れたから? 夢の中にお告げがあったから?」
 まったく魔法の存在を信じていないトラビスは、村人たちの迷信深さを面白がって言った。
 擦り切れ埃にまみれた服を着た見るからに汚らしい老婆が、トラビスを見るなりつかつかと歩みよってくる。
「一緒にきてくだされ」
 おもむろに細い泥のこびりついた手で腕を引っ張られ、トラビスはよろめいた。すぐに体勢を整え、老婆の手を振り払おうとするが、骨と皮ばかりに見える老婆の力はすさまじく、トラビスは全身の力をこめなければならなかった。ようやくのことで手を離させると、老婆は全身を怒りに包みトラビスを睨みつける。さすがに何事も面白がるたちのトラビスも、これには鼻じろんだ。
「おまえは何者だ」
 トラビスは老婆のなにかがおかしいと、本能的に剣へ手をかけた。
「領主様、そいつは、村の外れに住む魔女ですだ」
 老婆が何事か言おうとしたそのとき、村長が慌てふためいて走ってきた。
「逆らうと呪いをかけるんだ。お気をつけくだせい」
 村長の声は老婆を恐れて、震えていた。老婆は自分を恐れる者が現れたことで元気づき、にいっと笑う。
「そうじゃ、わしの言うことをきかなければ、呪ってやるぞ」
 目をぎらつかせ、トラビスをまっこうから見据える。均衡を失った気迫が老婆から漂い、腹の底からじわじわと恐怖が湧き上がってくる。テイルにいたときも、何度か魔法使いを名乗る者たちに会い、こんな体験をしたことがある。全員が狂人だった。狂気が、この者たちの存在を怪しげに、恐ろしげに見せるのだ。老婆も、それゆえに人を圧倒し、未知の力を手にしているように見えるのだ。
 トラビスは、喉元までせりあがっていた恐怖を飲み込み、すばやく剣を老婆の首につきつけた。魔法使いがよく脅すように、剣が折れることも、蛇に変わることもなかった。やはり、この老婆もただの狂人だ。トラビスはにやりとし、老婆に挑戦的な言葉を吐いた。
「おまえにそんな真似ができるものか。わたしが首を落としても、おまえにはなにもできないだろう。やってみようか」
 その言葉に老婆ではなく、村長が飛び上がった。
「魔女を馬鹿にしてはならねぇ。言うことを聞いてくだされ。森が霧の包まれて化け物が住むようになったのは、本当ですだ」
 村長が震える手で、遠くの霧の包まれた森を指し示す。トラビスもここにきた当時から、その森だけが霧に包まれていることに気づいていた。
「化け物か」
 トラビスもこの地にきてから、何度となく、今までみたこともないような動物または生き物を目にしていた。村人たちは、そのような存在を目にすると、すぐに精霊か魔物だと騒ぎたてるが、実際にトラビスが調べてみると、なんのことはない、新種の生物が存在しただけのことだった。今度もまた見なれぬ生き物が現れただけのことだろう。
「その目でみたほうが早いと言うのに」
 老婆がいらだたしげに口を開き、突きつけられていた剣を木の枝かなにかのように、払いのける。
「あそこの森だけがおかしいのが、わからんのか」
 老婆も干からびた手で、村長と同じ方向を指差す。
「ずうっと前に、あそこの森に、ちっこくて黒いトカゲがたくさん降ってきただ。それからすぐに霧が出て、その森は入った奴は、二度と出てこねぇだよ。いっちゃならねぇ場所なんだ」
「行かねばならぬ。世界の危機じゃ。世界が滅びようとしているんじゃ」
 老婆の神託を告げるような態度に、村長はへなへなと力を失い座り込んだ。
「世界が滅びるっ、こりゃ大変じゃっ」
 老婆の言葉を真に受け、村長はすがるような目をトラビスに向ける。
「どうか、領主様、世界を救ってくだせぃ」
 この真剣なまなざしに、トラビスは吹き出しそうになる。どうして気の狂った老婆の戯言を、そうも簡単に信じることができるのだろう。
「わかった。見に行くよ。それでなにもなければ、おまえたちも安心できるだろうからな」
 トラビスは馬の用意を使用人に命じると、いつのまにかそばに来ていたドナンが、五人の兵も呼んでくるようにと言い添える。
「五人は多いな。一人で行ってもいいところだ」
「少ないよりは、多いほうがいいのです。杞憂に終れば、それにこしたことはないのですから」
「わかったよ」
 ドナンの用心深さに慣れているトラビスはあっさりと承諾し、老婆へと向きなおる。
「おまえもこい。自分の言ったことが真実かどうか、自分の目で確かめるがいい」
 老婆は、ふんと鼻で笑った。
「それは、わしの言葉じゃ」





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