三日月の森・2

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三日月の森



 森は城から見えた以上に、濃い霧に包まれていた。非常に目の細かい蜘蛛の巣が密集してできたかのような白い霧が、視界を塞ぎ、呼吸を妨げ、動きを阻む。森はさながら、淡い影絵の世界だった。目に入るのは、うっすらと霧の向こうに見える灰色の影ばかり。
 一行は水中を歩くように、ゆっくりと進んでいく。乗ってきた馬は入るのを拒んだため、森の入り口においてきてあった。連れてくることができたとしても、これでは馬を走らせることはおろか、歩かせることさえ困難だろう。
 誰かが木の枝にでもぶつかったのか、うめくような声をあげる。
 枝がしなった。今まで葉だと思っていたものが、雨のように降ってくる。それらが剥き出しの顔や手に噛みつき、兵たちは悪態をついた。なにか小さな黒い生き物が、彼らを食らおうとしている。
「畜生、食い殺されちまう」
 兵が情けない声をあげる。トラビスは、すぐに払い落とせばなんでもないと励ましながら、足を急がせた。霧に包まれている範囲は、それほど広くはないはずだ。
 生き物は、無数にいるのではないかと思えるほど、たえず降り注いできた。人の指ほどもない大きさをいかし、わずかな服の隙間に入り、柔らかい肌に噛みついてくる。すぐに殺されることはないが、針で刺されるような傷みに、徐々に自分が食べられているという事実をひしと感じさせられ、叫びだしたくなるような恐怖に襲われる。長時間この霧の中にいたら、生き物に殺される前に発狂するだろう。
 後どれくらい正気を保っていられるのだろうかと、トラビスが考えはじめたとき、唐突に霧が晴れた。まるで目隠しがはずされたかのように眼前に広がる夜の景色を見て、トラビスはなにかがおかしいと感じながらも歓声を上げた。
 ありがたいことに、生き物たちは甲高いチイチイという声をあげながら、一目散に霧の中に逃げ帰っていく。彼らは、霧の中でしか生きていくことができないのかもしれない。トラビスはどんな生き物に苦しめられたのだろうかと、一匹を捕まえ、月光に照らした。それは、一見、無害そうに見える小さな黒いトカゲだった。村長が言っていたのは、このトカゲのことだろう。森を包んでいる不思議な霧が原因で木の上に住むトカゲが大量発生し、人を襲うようになったに違いない。
 退治するには、かなりの人手が必要だ。トラビスは、村人の話をもう少しまじめに聞き、慎重に対応するべきだったと後悔した。
 それから、さきほどからの違和感が、なにによるものなのか気づく。この森にきたときは、まだ日が高かったというのに、もう三日月が輝いている。それほど長い間、霧の中にいたとは、どうしても思えない。  この森は、なにかが変だ。
 トラビスは口の中で小さく悪態をついた。自分はあまりにも無用心にこの森に来てしまった。
 それでも、兵が全員、霧から出てくるのを見て、トラビスは胸をなでおろす。みな、全身血まみれでひどいざまだが、皮膚を噛み千切られただけの浅い傷しかない。自分の不注意で、死者が出るようなことになれば、一生悔やむことになるだろう。
 続いて老婆が無傷でひょっこりと姿を現し、トラビスたちを仰天させた。老婆はトカゲなどいなかったかのように涼しげな顔をしている。
「おまえは、襲われなかったようだな」
 トラビスは、若い健康な肉体しかトカゲは好まないのかもしれないと考えながら、老婆に話しかけるでもなく言った。老婆が、カッカと笑う。
「わしが魔法を使えることをまだ信じぬのか。わしを敬っておれば、あのトカゲどもから守ってやったものを。当然の報いじゃ」
「こんな奴はほおっておいて、あの屋敷に行きませんか。もしかしたら、傷の手当てができるかもしれません」
 老婆をかまうのも馬鹿馬鹿しいとばかりに、兵が言う。なるほど、彼の言うとおり梢の向こうに高い屋根が見える。
「こんなところに屋敷が?」
 トラビスは、いったい誰がこんな場所に屋敷を建てたのだろうと怪訝に思った。これまでランドルの領主になった者で、こんな森の奥に住む物好きがいたのだろうか。いたのかもしれない。なにしろ、ランドルの領主になるということは、手におえないと判断された者がていよく厄介払いされたということなのだから。
「行ってみるか。そこで休んだら、霧を通らずに森からでる方法を考えよう」
 もしかしたら、そこに住む者が、霧を通らずに森を出る道を知っているかもしれない。トラビスは希望を託して歩き出した。

 


 屋敷までは、思った以上に距離があった。近くにあると錯覚させるほど、大きな屋敷だったのだ。木々の向こうに屋敷とその手前にある朽ちかけた木造の物見やぐらが見えたとき、一同は、これで休めるとほっとする。
 トラビスは足を止め、人の気配はないかとようすを伺った。動くものはなにもない。誰かいないかと声をかけてみるが、いらえもない。
 二人の兵が物見やぐらを調べに行き、トラビスたちは屋敷の方へと向かった。
 屋敷周辺は、朽ちかけた屋敷とは対照的に、生命に満ちあふれた草が生えたい放題に茂っていた。手入れをするものがいなくなってから、久しいのだろう。
 屋敷に近い叢から異臭が漂ってくるのに気づき、トラビスは顔をしかめた。草をかきわけると、柔らかい金髪にガラスのような青い目の少女の頭部が無造作に放置されていた。体はない。
 兵たちに声をかけ、残りの部分を探させる。まもなく、ばらばらになったフリルのたくさんついたドレスを着た胴や足や手が、見つかった。ここに住んでいた少女なのだろうか。
 不思議なことに、少女の死体はこれほどまでに無残な死に様でありながら、ドレスは血に汚されていなかった。鋭い刃物に切られた赤い切り口からは、一滴の血がでた後もない。雨がこうまできれいに洗い流すものだろうか。そればかりか、吐き気を催すほどの腐臭がしている少女の肉体に、腐敗の兆候がまったくない。滑らかな肌の蝋人形のようだ。
 その頭が、ふわりと浮いた。
 長い金髪を宙で揺らし、生気のない目がトラビスを見る。サンゴ色の唇が動こうとしたとき、動転した兵がその首を剣で二つに割った。
 その途端、切った男の首が飛び、哀れな少女と同じく、手が、胴が、足が、切り離されていく。
 一同は、驚きのあまり声もなかった。なにが起こったのかまったくわからない。魔女が呪いじゃ呪いじゃと、ぶつぶつと呟く。
 二人目の犠牲者が出たとき、恐怖にかられた兵たちは、思い思いの方向へ逃げ出した。トラビスだけが、自分の連れてきた兵の体が切り離されていくのを見ながら、なすすべもなく呆然と立っていた。どうやったら、彼を助けることができるのだろう。どうしたら、次の犠牲者を出さずにすむだろう。
 ふいに強風に襲われ、トラビスは吹き飛ばされた。巨大な影が倒れたトラビスの上をよぎり、死んだ兵のそばで炎があがる。
 その火の中に、手足の大きな人間らしき姿があるのが見え、消えた。
「ドラゴンだ」
 兵が叫ぶ。鈍い地響きともに大地に降り立ち、ドラゴンは目に見えない生き物たちへ炎を浴びせていく。
 なぜ、ドラゴンがこんなところに。
 今度は、ドラゴンと戦わねばならないのかと、トラビスは飛び起き身構えだ。
 大きい。その巨体は優に屋敷を越えている。緑色の鱗は磨き上げられた鋼のような光沢を持ち、短い前足の爪は、剣のように鋭く尖っている。
「あんたら、こんなところで、なにやってんだ」
 男の声に振り向くと、少し離れた木の枝に、人間でない者が座っていた。美しくも攻撃的な<エフィール族>だ。白目のないエメラルドグリーンの目で、呆れたようにトラビスたちを見ている。
 人間よりも小柄な<エフィール>は、かれの種族特有のぴったりとした黒い革の服を着ていた。首の後ろでひっつめた柔らかな金髪と白い肌は人と同じだが、肘から手の甲までと膝から下には、目と同じ色の細かい鱗がぎっしりと生え、手足の爪は黒く鋭く尖っている。鱗に覆われた長く先が剣のように鋭い尾が、枝の下で揺れている。
 その美しくも恐ろしい姿とは裏腹に、肩には、青く光る少女の姿をした可愛らしい妖精を乗せていた。
「あのドラゴンはお前のか」
「そうだ」
「どうして助けた。おまえこそ、ここでなにをしている」
 トラビスは、なにかの罠ではないかと警戒し、辺りを見まわした。彼のほかに<エフィール>はいないようだ。
 <エフィール>はにっと笑ってその鋭い牙を見せると、ひょいと木から飛び降りた。
「フィルが、おれの妖精のことだけど、それがおまえたちを助けろと言ったんだ。<エフィール>は、それぞれ自分の妖精を持っていて、それを守り神にしてるぐらいのことは知ってるだろ」
 フィルと呼ばれた妖精が、可愛らしく羽を震わせ、鈴のような音をたてる。
「それでわたしたちを助けるというのか」
「おお、神のお使いよ」
 老婆がおおげさにひれ伏す。
「このおばあさんは、なんですか」
 弓を持った背の高い男がドラゴンの背から飛び降り、トラビスは目を疑った。結ぶ必要のない長さの黒髪と、重みのある黒い目の若い男は、<エフィール>の服を着ていたが、まぎれもなく、人間だった。
「きみは、どうして<エフィール>と共にいるんだ?」
 今まで、<エフィール>と人間が共に暮らすことがあるなど、聞いたこともない。
「彼らに育てられたんです。子供のとき人間に殺されるところだったのを<エフィール>が助けてくれたんですよ。ぼくの名はラルファンと言います。そうは見えないでしょうが、これでも学者なんです。そして、彼がシャグイン、このドラゴンがディートです」
 トラビスは、ラルファンをまじまじと見た。彼はどうみてもトラビスと同じ、二十四、五歳ぐらいに見える。その歳で学者になれるものだろうか。しかし、<エフィール>と人間とでは、学者の意味が違うのかもしれない。
「<エフィール>がいい奴だと。こいつらが何度、我々に戦を仕掛けてきたと思っているんだ」
 兵の一人が反感も顕に言い返す。ラルファンは、どうしたら理解してもらえるのだろうと困惑気味に答える。
「それは、あなたたちが、自然の均衡を乱したからです。確かにすぐに戦に持ち込むのは、<エフィール>の悪い癖ですが、やみくもに戦は仕掛けたわけではないんです。それにここ三十年以上、<エフィール>は人間に対して戦を起こしてはいませんよ。今では<エフィール>も戦いだけが、解決の道ではないことをよく知っているんです」
「け、<エフィール>びいきめ。おまえの口車に乗るものか」
 吐き捨てるように兵が言う。
「ふん、繁殖するしか能のない愚かな人間どもめ。好きなだけほざくがいい。魔法も見えないできそこないの目で、ここから出てみるがいい」
 シャグインが、冷たい怒りを込めて敖慢に言い返す。
「なんだと、偉そうにっ」
 兵たちが腹を立て剣に手をかけたのを見て、トラビスは間に割って入った。生きて森から出られるかどうかも怪しいというとき、いらぬ争いをしている場合ではない。
「いや、信用しようじゃないか。我々には助けが必要だ」
 トラビスは、真剣な面持ちで言った。老婆が喜び、兵たちが口々に異議を唱える。トラビスは兵たちに向けて話し出した。
「いいか、よく聞いてくれ。<エフィール>を嫌うみなの気持ちはよくわかる。だが、<エフィール>には、さっき兵をばらばらにした生き物が、ちゃんと見えるし、戦えもするんだ。これだけでも、一緒に行かねばならない十分な理由だ。信用ができないなどと言っている場合じゃない。さっき襲われたとき、一目散に逃げ出したおまえたちが、自分たちでどうにかできるなどと言うのはやめてくれよ」
 兵たちはたちまち口ごもった。それでも、納得できない兵が小声で反論する。
「だまし討ちにされたらどうするんですか」
「我々を殺すつもりなら、最初から助けなければいいじゃないか。だますまでもない」
 トラビスたちの会話を聞いていたシャグインが、フンと鼻を鳴らす。
「人間は、ほんとに馬鹿ばっかだな。なにが正しいのかわかりゃしないんだ。話が決まったら来いよ、トラビス。あんたの仲間が閉じ込められて泣いてるぜ」
 そう言い、シャグインは物見やぐらに向かって、とっとと歩きだす。ラルファンも同行するのかと思いきや、少女の死体があるほうへと行ってしまった。老婆のほうはというと、玄関前に座り込み、ぼんやりとドラゴンを眺めてはじめる。
「おれの名前をどうして知っているんだ」
 どうにか兵を説得したトラビスは、歩くのが早いシャグインの後を、半ば走るようにしてついていきながら尋ねた。シャグインは尾で、不承不承ついてくる兵の一人を指し示した。
「奴がそう呼んでたからさ。魔法とでも思ったのか」
「いいや。たいていの魔法と呼ばれるものには、なんらかの仕掛けがある」
「いい考え方だ」
 シャグインはうれしそうに答え、トラビスは耳を疑った。
「なんだって? きみは魔法を信じないのか」
「信じるさ。魔法は仕掛けがあるから、作動するものなんだ。知らなかったのかよ。さて」
 彼は物見やぐらの前で立ち止まり、トラビスたちを見まわした。
「トラビスだけでいい。後は入ってくるなよ」
「だめだ」
 兵たちがまたしても異論を唱える。シャグインがいらただしげに彼らを見返した。
「いいぜ、こんな狭いところに、全員で入って身動きが取れなくなっていいんなら」
 彼の言うとおりだった。狭い物見やぐらには、多くて三人、自由に動きたければ、二人しか入る余地がない。トラビスは兵たちを外に待たせ、シャグインの後から中に入った。貯蔵庫に流用していたのか、土の上にじかに藁が積まれている。上に続く梯子の方から、肉が腐ったような臭いが流れてくる。
 シャグインは、匂いなど気にもせず、ひょいひょいと梯子を登っていく。トラビスもややぎこちない足取りでそれに続いた。上の階にも藁がまかれていた。その中から悪臭を放つ女の死体がのぞいている。
「人間だ」
 トラビスが死体を見て言う。
「ちがうよ。よく見ろよ。耳が尖っているし、傷から血が出たようすもない。腐った匂いはしても、どこも腐敗はない。こいつは、血のかわりに空気が流れている<フィアル>さ。ここは、<フィアル>の住処なんだ」
 シャグインは、見るのもおぞましいとでも言いたげに死体から目をそむける。<フィアル>は攻撃的な<エフィール>とは違い、人間とかわらぬ姿をした温和で愚鈍な種族だ。人間には好かれているが、<エフィール族>とは敵対関係にある。
 シャグインは、<フィアル>の死体をと弔おうともせず、また梯子を登った。
 そこに、うろたえた兵二人がいた。怪我はしていない。彼らが<エフィール>を見るなり、剣を抜こうとするのをトラビスは慌てて押し止めた。
「どうして、降りてこないんだ」
「それができないんですよ。あなただって、もうここから出られませんよ」
 途方に暮れたようすで兵が答える。
「そんなわけはないだろう」
「試しに降りて見てくださいよ」
 トラビスは言われた通り、降りてみた。何事もなく、死体のある階につく。もう一度降りろと言われ、その通りにしたトラビスは、やっと兵の言う意味が理解できた。兵たちのいる階に彼は立っていた。
「空間がねじ曲っているんだよ。人間には、そんなことも見えないんだな」
 シャグインは、どうしてこんな簡単なことがわからないのかとばかにしたように言い、尾を天井に伸ばした。それがなにかをひっかけて下がると同時に、トラビスは自分が落下したかのような感覚に襲われる。
「なんだ?」
 見た目には、なにもかわりはなかった。シャグインがなにも言わずに梯子を降りていく。後に続くと、今度は何事もなく外に出られた。
「なにをしたんだ?」
 トラビスはなにが起こったのかわからず、シャグインに聞く。
「たいしたことじゃない。空間を元にもどしただけだよ」
 彼は事もなげに言い、ラルファンがいる屋敷のそばへと歩いていく。空間の操作など魔法の生き物の<エフィール>にとっては、なんでもないことらしい。





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