ラグナレク
プロローグ 雲が空を覆っている。分厚く重い雲に、空はあますところなく覆われている。世界は太陽を失った。日の当たる場所は消え去った。 雲は空だけではあきたらず、大地も深い雪で覆い隠した。地上は厳冬となり、それは〈フィムブルヴェト〉と呼ばれた。雲が太陽を覆い隠し雪を降らせ、長い長い冬になった。三度の長い冬のうちに、人々は暖かな春を忘れ、暑い夏を忘れた。太陽のことなど遠い昔の記憶でしかない。 それでも、 地上に光は射していた。血のように赤い光が分厚い雲から発せられ、地上に積もった白い雪に反射する。 まるで、炎のゆらぎのように。 世界を焼き尽くす炎、世界を滅ぼす炎。 人々は知っていた。世界の滅びる時がきたことを。〈最後の戦い〉が始まることを。 もはや、大地に作物は育たない。草木は枯れ、動物は死んでいく。 神々は力を失い、封じられたすべての邪悪が解き放たれた。あらゆる生き物が魔性を宿す邪悪な魔物となり、神や人間の敵となった。 《ミッドガルド(人間の世界)》は、九つの世界の中で最も早く魔物の世界と化した。獰猛な獣は人を蹂躙することを覚え、温厚だった動物たちは近づくものをすべて殺した。かつて、人々の食料となっていた家畜たちは二本足で立ちあがると武器を手にとり、多くの仲間を殺した人々を襲った。 それだけではない。人々の目を楽しませた可憐な花々は人を食らう肉食花となり、青々と緑の葉を茂らせ実をならしていた樹木は洞に牙をはやし、枝を鞭のごとくしならせる危険な存在となった。 なにもかも終わりだった。じきに巨人が《アスガルド(神々の世界)》へと続く虹の橋〈ビフレスト〉を渡り、神々を襲うだろう。神々の見張り役ヘイムダルは〈ギャラルホルン〉という名の角笛を吹き鳴らし、〈最後の戦い〉が始まったことを知らせるだろう。人間の世界では死者が生者を襲い、妖精の世界では〈闇の妖精〉が〈光の妖精〉を襲うだろう。 世界が滅びるときは、もう眼前までせまっていた。
「あー、腹減ったなぁ」 にやけた印象を与える口元とおどけた黒い目をした吟遊詩人は、大事な商売道具である弦楽器キターラを放り投げ、ありあわせの板切れを使って補強してある粗末なベッドに勢いよくうつぶせに倒れこんだ。ベッドは踏み潰されるねずみの悲鳴のような音をたてたが、どうにか吟遊詩人の重さに耐えた。彼は顔にかかった長い黒髪を払うと、狭い部屋の片隅で椅子に座り物思いにふけっている若い男に向かって言った。 「なんかねぇのか、アルヴィース」 魔道士の印である本と杖の紋章を、左胸に銀糸で刺繍した黒い服を着ているアルヴィースと呼ばれた男は、周囲のことを忘れるほど深く考えにとらわれていたらしく、はっとして顔をあげた。アルヴィースの腰まで伸びた金と赤の髪が、炎のように揺れる。その髪は火の精であることを示していたが、父親が半分だけ人間の血を引いていたため純粋な妖精ではなかった。 吟遊詩人がもう一度「腹が減ったよぉ」と言うと、アルヴィースはいたずらめいた光を淡青色の目に浮かべ、「宿屋の主人が食事を出すと言っていたが」と答える。 「冗談じゃない。主人の耳が豚の耳になってたのは、魔物を食ってるからだよ。それとも、豚野郎が人間のふりをしてるのかな。どっちみち、まともな食事が出るわけねぇ。おれは人間だの魔物だのを食べるぐらいなら、飢え死にするよ。なぁ、頼むよ、アルヴィース、魔道で安心して食べれる物を調達してくれよ」 吟遊詩人は今にも死にそうな声をだして魔道士に頼んだ。アルヴィースはそれに答える代わりに黒いマントを取り上げ、男にしては少し線の細い体にまとった。 「兄上は?」 アルヴィースは、もう一つの椅子に腰掛けていた茶褐色の短い髪に親しみのある茶色の目をした男に聞いた。彼はいかにも戦士といった鍛え上げられた体格で、肩幅が広く胸板が厚かった。英雄然としていて、ほっそりとした弟のアルヴィースと少しも似ていない。 「悪いが頼むよ」 彼はそう言いながら、剣を手に取り立ちあがった。 「なんだ? シグルズも行くのかよ。こういうことは、魔道士に任せておいたほうがいいぜ」 吟遊詩人が、驚いて起きあがる。 「出口までついて行くだけだ、アルスィオーヴ」 アルヴィースがなぜ子供のように見送られなければならないのかと片眉を上げて、自分より背の高いシグルズを見上げる。 「前に酒場で酔っ払いにからまれて、死人がでる騒ぎになっただろう。一階にいる酒場の連中とまた面倒が起きるかもしれない」 「だから、一緒についてくると。兄上はいつまでもわたしを子供扱いするんだな」 アルヴィースはむっとして言った。
階段を降りるとシグルズが心配した通り、一階の酒場にいた連中が口々に線の細いアルヴィースに向かって卑猥な言葉を投げつけてきた。彼らは魔物の肉を食したせいで、その姿だけではなく精神も魔物に近づいていた。熊の腕をした男や猫のひげを持つ女、トカゲの頭を持つ老人、魚の鱗に覆われた子供、大人ばかりか子供までもが魔物と化し、理性が失われた濁った目をしている。彼らは宿屋の主人が作った原料がわからぬ怪しげな酒を飲みながら、獣が無理に人をまねたような声でアルヴィースに侮辱的な言葉を浴びせ、調子の狂った甲高い笑い声をあげる。アルヴィースはそんな彼らを気にもとめず、戸口に向かった。 「おい、あんた、いくらだって聞いてるだろ」 いくら話しかけてもアルヴィースが返事をしないため、怒った男が足元をふらつかせながら近づいてくる。よく見ると男がふらついているのは酒のせいではなく、左足が鶏の足になっているためだった。左足を出すたびに体重をうまく支えることができず、横に倒れそうになる。 シグルズは喧嘩沙汰にするまいと、男とアルヴィースの間に割って入った。 「なにか用かい」 できるだけ陽気にシグルズは言う。しかし、男は死んだ魚のように濁った目をシグルズに向けようともせず、アルヴィースに怒鳴る。 「おいっ、聞いてんのか」 男がシグルズを押しのけ、アルヴィースの肩をつかもうとする。シグルズは手を払いのけようとしたが、その前に男はテーブルの上に吹っ飛んでいた。周りの者たちも巻き込んで派手にひっくり返る。 「兄上の出番はないよ」 男を殴ったアルヴィースはすまして言い、穏便にすますつもりだったシグルズはあきれ顔になる。 「アルヴィース、いきなり殴ったりしたら」 間違いなく喧嘩になるとシグルズが最後まで言う前に、アルヴィースは「心配ない」と言い、魔物が徘徊する外へ出て行ってしまった。 なにが心配ないのか。酒場に残されたシグルズは殴られた男が怒って殴りかかってくるものと覚悟したが、どういうわけか酒場は静まり返っていた。だれもが凍りついたように動かず、さっきひっくり返った者たちも不自然な姿勢のまま身じろぎもしない。シグルズは、手近な男の目の前で指を鳴らしてみた。瞬きもしない。 「魔道か」 アルヴィースがいつのまにか魔道を使って彼らの動きを止めたのだ。彼は乱闘に発展させないために、初めからこうするつもりだったのだろう。シグルズは渋い顔で「やりすぎだ、アルヴィース」と呟いた。
度重なる魔物たちの襲撃に壁や屋根を壊され間に合わせの修繕で継ぎ接ぎだらけとなった宿屋の周りには、腐った肉を馬の形の袋につめたような動物や、花の中心に目があり葉が人の指にそっくりな植物など、動物や植物を醜く恐ろしげにした姿の魔物たちが集まっていた。彼らは中にいる人間たちを狙っていたが、宿屋に近づこうとするたびに雷にふれでもしたかのように身を震わせ口惜しそうに引き下がる。 宿屋は先日まで、厳冬と魔物たちのおかげで行き場を失い宿屋に住みついた者たちが代わる代わるに襲ってくる魔物と戦っていたが、今はアルヴィースが宿代わりに作った魔よけの護符に守られていた。魔物がどんどん強力になっていく中、護符の力がいつまで効くか怪しいが、そう長い時間かからずに宿屋にたむろしている者たちは完全な魔物となり、護符が疎ましくなるだろう。 アルヴィースが宿屋から出ると、待ち構えていた魔物たちは嬉々として近づいたが、相手が剣でしか身を守れない人間ではなく魔力を使って戦える魔道士だと気づくと、すぐさま身を翻し失望に満ちたけたたましい声をあげて逃げていった。小物の魔物は、自分より魔力が強い者に立ち向かう愚は犯さない。いつだって自分より弱い者を狙うのだ。 アルヴィースは雲が発する赤い光に照らされた雪の上を、宮廷に敷かれた絨毯を歩くように優雅に歩いた。足は深く積もった柔らかい雪に沈みもせず、足跡も微かにしか残らない。十二歳のときまで《アルフヘイム(光の妖精の世界)》で育った彼は、純粋な妖精と同じように柔らかな雪や水の上を歩くことができるのだ。 彼は、まっすぐに近くの森へと向かった。森とはいっても、通常の樹木からなる森ではない。魔性の宿った樹木ばかりからなる危険で邪悪な森だ。魔力の宿った木々が根をくねらせ洞からうなり声を出し、侵入者を威嚇する。蔦がゆっくりと蛇のように這い、侵入者を絡めてしまおうと近づいてくる。魔力を持たない者が森に入ればたちまち枝や蔦に捕まり、運良くそれを逃れたとしても刃物のような鋭い葉をつけた枝に殴られ、または飛んできた鋭い葉に切り刻まれ根に噛みつかれ、森の栄養分となるだろう。 だが、アルヴィースは弱冠二十歳とはいえ、強力な魔力を持った魔道士だった。彼はいくつかの身振りと呪文で蔦の動きを封じ木々をおとなしくさせると、目的のものを探して森の中に入っていった。
あった。 ほどなくして彼は、青々とした葉を茂らせ数匹の大蛇をからみつかせた樹木の前で足を止めた。大蛇がアルヴィースの姿を見るなり、激しく身をよじらせ威嚇した。大蛇は太い枝が変化したもので尾は幹の上部に繋がっていた。攻撃に備えて葉が逆立ち、豆のように小さな茶色の実が見える。 間違いなくドーヴィンの木だ。それは、世界が滅びかけているこの時代に人間に害のない実をならすことができる数少ない樹木だった。しかし、その実を獲ることは非常に難しく命がけだった。木が生きている間はもとは太い枝や根であった数匹の大蛇が、わずかでも皮膚にふれれば死にいたる毒を吐きかけ、それでは実が取れないからと倒してしまえば実に毒が回り食せなくなる。 ドーヴィンの木は棘だらけの長い枝を鞭のようにしならせ、蛇の頭を持った根を土の中から現わした。六匹の大蛇が鎌首をもたげ、牙を剥き出し毒液を吐く。アルヴィースは魔道で透明な障壁を作り、毒液を跳ね返した。 ドーヴィンの木に知能があるのか本能のなせる技なのか、相手が毒を吐きつけるだけでは殺せないとわかると、幹を震わせ雄叫びをあげた。すべての大蛇が一斉にアルヴィースを襲う。鉤爪の形をした枝もアルヴィースへつかみかかる。 アルヴィースの静かに燃える鬼火のような青い瞳が、火を放った。長い髪が炎に変わり、ドーヴィンの木に巻きつく。 ドーヴィンの木は、突如、燃え上がった獲物から離れようと必死にもがいた。根の蛇は冷たい土の中にもぐりこみ枝は背後にそらされ、逃げ場のない幹はできるだけアルヴィースから離れようとのけぞった。それでも、アルヴィースは手を離さない。木は人間のように哀れっぽく泣きわめき、実を落とし始める。すべての実が落ちたとき、やっとアルヴィースは手を離した。えらい目にあったものだとドーヴィンの木は根を足のように使い、一目散に逃げていく。 アルヴィースは落ちた実を一抱えほど集め、マントにくるんだ。これなら充分な栄養を補給できるばかりでなく、二人の男が腹を膨らませることもできる。ただし、味の保証はないが。さぞかしアルスィオーヴが文句を言うだろうとアルヴィースは苦笑する。 宿屋に帰ろうと一歩、足を進めたとき、アルヴィースは血が毒となり全身を焼け尽くす感覚に襲われ、自分の身体を抱きしめ膝をついた。激しく咳込み、生暖かい血を吐く。全身を焼かれる激痛に、ここが危険な森であることも忘れて転げまわる。苦痛のあまり血の涙を流し、またしても深紅の血を吐く。 しばらくして苦痛は治まり、アルヴィースはゆっくりと起き上がった。ドーヴィンの木との戦いを見て怖気づいたのか、魔物は襲ってこなかった。ここには火を嫌う魔物しかいないことが幸いしたようだ。苦痛のあまり転げまわったおかげで、あちこちにぶつかった全身が痛む。 「今度こそ死ぬかと思った」 アルヴィースは目を閉じ大きく息を吐くと、顔にこびりついた血を雪でおとし、実を包んだマントを拾い上げた。
「アルヴィース、すぐにこの連中の魔道を解くんだ」 アルヴィースが宿屋に戻ると、シグルズが階段に座って待っていた。酒場の連中はアルヴィースが出て行ったときと同じく、人形のように硬直したままだ。体の一部が魔物と化してしまった人々が凍りついているさまは、まるで人間を侮辱するために作った彫像だ。 「せっかく食料をとってきたのに、いきなり怒ることはないじゃないか」 アルヴィースが不服そうに言う。シグルズはさらに言い募ろうとし、アルヴィースの顔や手が傷だらけになっていることに気づいた。 「どうしたんだ、その傷は。そんなに危険だったのか」 やはり言われたかと、アルヴィースは天を仰いだ。苦痛のあまり森を転げまわった時、肌が出ている部分にたくさんの擦り傷を作ってしまったのだ。 「全部かすり傷だよ。そんなことより、これを食べてくれ」 実を包んだマントをシグルズに押しつけ、これ以上うるさいことを言われる前にと、そそくさと階段を登っていく。 「おい、この連中をいつまでこのままにしておくんだ」 シグルズが慌てて言う。 「明日、出発のときに戻すよ。寝込みに襲われて、我々が明日の食事になっているなどということになってほしくないからな」
「まずっ」 アルヴィースの思っていたとおり、十粒ほどまとめて口に入れたアルスィオーヴは目を白黒させそっくり返った。 「なんだよ、これ。すんげぇ、苦い」 慌てて水を飲み、ドーヴィンの実を胃に流しこむ。さすがに文句の多いアルスィオーヴも食料がない今、どんなにまずくとも吐き出すようなことはしなかった。 「贅沢を言うな。安心して食べられるだけでも、ありがたい」 シグルズはアルスィオーヴが大げさだと言いたげに五、六粒、口に入れ、うっとうめいて口を押さえるとすぐに水を飲み込んだ。 「ほら、みろ。まずいじゃんか」 アルスィオーヴはげんなりとした顔で、テーブルに積まれているドーヴィンの実を見た。それから、すがるようにアルヴィースを見る。 「おまえ、これ全部、おれたちに食えっての」 「とうぶん、飢え死にしないですむだろう」 意地の悪い笑みを浮かべて、アルヴィースが答える。 「はぁ、こんなの地獄だぜ」 「そのとおりだ。もうすぐ世界が滅びるんだからな」 シグルズがあきらめ顔でドーヴィンの実を口に放り込み、ろくろく噛まずに水で飲み込んだ。それを見たアルスィオーヴも、無理やり胃に流しこむことにする。 「アルヴィース、世界が滅びるの止めてくれよ」 アルスィオーヴが、無茶苦茶なことを言う。 「無茶言わないでくれ。神々でさえ避けられない問題をわたしにどうにかできるわけがないだろう。再び新しい世界が創られるまで、生きのびることを考えるしかない」 「なら、早く世界が滅んでくれることを祈るよ」 無責任なことを言い、アルスィオーヴはベッドに寝転がった。
朝といっても雲に閉ざされたこの世界では、昼も夜も薄暗い黄昏色の光に満ちている。体内の感覚だけで朝と見当をつけ、アルヴィースたちは旅支度を整えた。一階の酒場の連中は、まだ出来の悪い彫像と化したままだった。アルヴィースは、宿屋の主人だけ硬直を解いてやる。 我に返った宿屋の主人は動かない客たちを見回し、怯えた顔でアルヴィースの黒いマントを見た。どうやら今頃になって、黒は魔道士の着る色であり魔道士は畏怖するべき存在だと気づいたらしい。 「な、な、なんでしょう」 主人は豚となった耳を動かし、ひきつった愛想笑いを浮かべる。 「この辺りにフュルギヤ姫が住むヘルブリンディ城があるはずだが、そこへ行く道を知っているか」 それを聞いた主人は豚が絞め殺されるような声をあげ、カウンターの後ろにへたりこんだ。 「魔女の名を言わないでください。呼ばれたと思ってこっちに来ちまう。あいつは素手で両親を殺して、食っちまった狂人なんですよ。まだ十六の娘だってのに、人間をさらって奴隷にしたり、食ったりする魔女なんだ」 「そんなことはどうでもいい。わたしが知りたいのは、城へ行く道だ」 「どうでもいいですって」 主人は妖精のような青年の無関心ぶりに、実は魔物が化けているのではと考え身震いした。こんな危険な時代に旅をして魔女のフュルギヤに会いに行こうとする者が、魔物以外にいるわけがない。 「あの化け物の城は、西の丘を越えて川沿いの道をまっすぐに行けば見えてきますよ。あんたたち、退治しに行くつもりですかい?」 主人はひょっとしたら人の姿をした魔物ではなく本当に魔道士で、魔女を退治しにいくのかもしれないとわずかな希望を持って聞いた。だが、アルヴィースの答えは聞かなければよかったと後悔するものだった。 「いいや、求婚しに行くのさ」 アルヴィースは冷たい笑みを浮かべて言い、主人は白目を剥いて背後に倒れた。 |
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