ラグナレク・1−1

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ラグナレク


第一章 滅ぼす者・1



「魔法じゃ、魔法じゃ」
 まだ明るい太陽の光が赤黒い雲に隠されず、〈滅びの時〉の前触れである長い冬が訪れていない頃のことだった。天井や壁、椅子やテーブル、燭台、食器、あらゆる物にふんだんに金や銀が使われていたが、様式も配置も気遣われていないため、けばけばしいがらくたの物置としか見えない部屋に、うろたえた声が響いた。
 頭がうすく小太りの王スリーズは腰を抜かさんばかりになって、震える手で宝石を散りばめた揺りかごの中の我が子を指さしていた。
 スリーズの治める国は、《ミッドガルド(人間の世界)》の北東にある山脈に囲まれた小国ガグンラーズで、巨人が住む《ヨツンヘイム》や光に当たれば灰になってしまう〈闇の妖精〉が住む《スヴァルトアルフヘイム》に近いため、もっとも魔法の被害にあい、もっとも魔法を嫌っている国だった。
 平凡な顔立ちのベストラ王妃も血の気を失い、自分の見たものが信じられぬとただただ幼い我が子を見つめる。老齢の乳母は揺りかごのそばで腰を抜かし、身じろぎもせず息をすることさえも忘れていた。
 揺りかごの中にいる月の光を集めたような銀色の瞳をした赤ん坊は、屈託のない笑い声を上げ両手を振っていた。彼女の視線の先にはふわふわと宙に浮いた人形がある。人形は彼女の手に合わせて、左に右にと動いていた。
「どうして、こんなことが。我が血筋に魔力を持つ者などが生まれるわけがない」
 スリーズ王は顔を真っ赤にし、ぶつぶつと呟きながら部屋の中を歩き回った。侍女のように控えめなベストラ王妃は、我が子の行く末を案じてますます蒼白になる。
 ガグンラーズは、魔力を持つ者を死刑にする唯一の国でもあった。長年、巨人や〈闇の妖精〉、特にいたずら好きの〈闇の妖精〉に振り回されてきただけに、魔法への嫌悪は強すぎるほどであり、魔法を使う者すべてが敵だった。魔力を持つと思われる者はすぐさま告発され、形だけの裁判を受けただけで死刑となる。
 スリーズ王は、自分の娘フュルギヤも死刑にすべきなのだろうかと悩んだ。これが他人の娘だったら、〈闇の妖精〉が夜中にこっそりと人間の子と妖精の子を取替えていったのかもしれないと、もしくは〈闇の妖精〉にだまされ〈闇の妖精〉の子を産んでしまったのではないかと疑い、なんの躊躇もなく死刑を命じたろう。しかし、これは自分の娘であり、ガグンラーズ国の王女でもある。こともあろうに王の娘が〈闇の妖精〉のいたずらにあい、〈闇の妖精〉の赤ん坊にすり返られてしまったなどと民に知れたら物笑いの種にされてしまう。まして、王妃が〈闇の妖精〉にだまされ妖精の子を身ごもったなどとは、あってはならないことだ。なんとしても死刑にはせずに、しかも王家としての面目は保てる方法を考えねばならない。
「これは呪いだ。〈闇の妖精〉か巨人かは知らんが、魔力を持った者が我が娘に呪いをかけたのだ。そうでなければ、我が血筋に魔力を持つ者が生まれるわけがない」
 スリーズ王は熱に浮かされた病人のように言った。我が子が死刑になるのではと心配していたベストラ王妃は、最悪の事態だけは免れたと小さく息を吐く。
「すぐさま、フュルギヤを塔に連れていけ」
 スリーズ王は床に座り込んだままの乳母に命じ、フュルギヤを塔の中で育て、けっしてだれにも会わせるなと付け加えた。
「わたくしも会えないのですか」
 ベストラ王妃がおそるおそる尋ねる。
「そうだ。世話をする乳母以外は、だれも会ってはならん。フュルギヤは死んだと思え」
 スリーズ王は、だれかがフュルギヤが呪われてなどいないと気づくことを恐れて言った。ベストラ王妃はもう二度と我が子に会えないのかと力なく長椅子に倒れ、声を押し殺して泣き出した。スリーズ王はまんまと〈闇の妖精〉にだまされ〈闇の妖精〉の子を産んだかもしれぬ王妃を、視線で殺せるものなら殺してやりたいとばかりににらみつけた。

 


 スリーズ王は王妃を疑い腹を煮えくりかえらせながらも、真実を恐れて王妃を問い詰めることはせず、だれかの疑いを招くことを恐れて、罰を与えることもしなかった。代わりに呪いの話に真実味を帯びさせるため、姫を呪った者が国の中にいるかもしれないと、今まで以上に厳しく魔力を持つ者を取り締まった。多くの警備兵が目を光らせて町を歩き回り、怪しげな言動をしたよそ者を捕らえていく。
 いたずら好きの〈闇の妖精〉がこの状況を知ると、わざと警備兵の前に姿を見せて一晩中、町中を逃げ回り、朝日が射しこむ頃に愉快そうな笑い声をあげながら姿を消した。必死で追い駆け回る警備兵を〈闇の妖精〉はおもしろがり、毎晩のように現れたが、警備兵たちには楽しいわけがなかった。一晩中走りまわされた挙句、笑い者にされて逃げられたのではたまったものではない。毎回、今度こそ捕まえてやると意気込むが〈闇の妖精〉は屋根や塀の上を身軽に駆け回り、やっとのことで捕まえられそうになれば、姿を消してしまい、警備兵はいらだちを募らせるばかりだった。
 ただでさえ取締りが厳しくなっているときに、〈闇の妖精〉が警備兵の怒らせてしまったため、厳しいどころではなくなった。警備兵はみな不機嫌で怒りに満ちた目をするようになり、怪しいと思っただけで旅人だけでなく国民も捕らえていった。警備兵は彼らを〈闇の妖精〉のまわし者と言っては拷問し、死刑になる前に殺してしまうことまでした。いつしか〈闇の妖精〉は追いかけっこにあきて現れなくなったが、警備兵の怒りは静まらなかった。怪しげな者が見つからねば、気に食わぬ者、逆らった者に因縁をつけて捕らえては拷問し死刑にしていく。
 この異様な状況に耐えきれず、夜更けにこっそりとガグンラーズを離れる者が現れた。警備兵は彼らを捕らえ魔力があるから逃げたとして死刑にしたが、取締りを厳しくすればするほど、国を出ようとする者は増えていった。
 スリーズ王は身内を警備兵に捕らえられてしまった家臣から、警備兵が横暴になり無実の者を死刑にするようになったため、民が国外に逃げていると聞き、眉をしかめた。たかが警備兵のために、どうして民がガグンラーズから逃げるのか。身内に魔力を持った者がいたせいで家臣の気がおかしくなったのかとスリーズ王が考えていると、家臣は「どうしてこれほどひどいことができるのでしょう。警備兵たちは人間ではありません」と涙ながらに訴え、スリーズ王ははっとした。人間ではない、人間ではないとしたらいったいなんなのか。おそらく〈闇の妖精〉なのだろう。〈闇の妖精〉が警備兵に化けているから、人々は警備兵を恐れ逃げ出したのだろうと考えたスリーズ王は直ちに将軍を呼び、警備兵を一人残らず捕らえて死刑にするように言いつけ、これ以上国民が国を出たり旅人に化けた〈闇の妖精〉が入ってきたりしないように国境を閉鎖した。
 警備兵がいなくなり、人々はこれでやっと安心して暮らせると胸をなでおろしたが、同時に国を出ることも入ることもできなくなってしまった。これでは先にガグンラーズを出ていった肉親に再び会う事が叶わないばかりか、品物を売買するために他国に行くこともできない。人々は山脈に囲まれた小さな国に閉じ込められ、自国のわずかな生産物でやりくりするしかなくなってしまった。

 


 竜殺しのシグルズとして名を馳せたファグラヴェール王国の王子は、茶色の目を空に浮かぶ赤く黒ずんだ雲に向け、憂鬱そうに首を振った。あと何年かすれば、あの膿んだ傷口のような雲が、明るく清々しい青い空を覆ってしまい、〈フィムブルヴェト〉と呼ばれる厳冬を引き起こすだろう。忌々しい雲をなくすことは魔道師どころか神々にさえできなかった。
 このまま、黙って世界が滅びていくのを見ているしかないのか。魔道を奨励するファグラヴェール王国で王の相談役をしている魔道師ゲンドゥルは、古い世界が新しい世界に生まれ変わるため〈滅びの時〉はどうしても避けられぬことだと言う。
 夏にしては冷たすぎる風に身が震え、彼は鍛え上げられた身体にマントをしっかりと巻きつけた。供をしていた兵士たちも、寒さに顔を蒼ざめさせている。
「日が落ちる前に村に行こう」
 シグルズは馬を走らせ道を急いだ。この先に名もない小さな村があり、近くの谷に住む竜に脅かされていた。これまで三匹の竜を倒した彼は、村人から助けを求められたシグムンド王より命を受け、竜を退治するために王都から程遠い西端の地まではるばるやってきたのだ。
 村人によれば、竜はかなり昔から谷の洞窟に眠っていたが、村のだれもが時折響く雷鳴が竜のいびきだとは知らずに、何世代も平穏に暮らしていた。ところが最近になって竜が長い眠りから目を覚まし、空腹を満たそうと家畜を狙い、それでも足りずに人を襲うようになったという。
 このような話はこの村だけではなかった。今まではいないと思っていた竜が目を覚まし暴れはじめて困っているという話は、次から次へと武勇を誇るファグラヴェール王国のシグムンド王のもとへ報告されている。世界が滅びるときに起こる〈最後の戦い〉に備えて、竜たちが目を覚まし力を蓄えようとしているのだ。
 人間や神の敵は少しでも少ないほうがいい。シグルズは敵となるであろう竜が力をつける前に、一匹でも多くの竜を倒すつもりだった。
 突然、かげろうのように大気が揺らぎ、ファグラヴェール王国の紋章をマントに刺繍した魔道士が目の前に現れ、シグルズは眉間に皺を寄せた。魔道士がこうやって現れるときは、決まって悪い知らせを持ってくる。
「シグルズ様、すぐに城にお戻りください。シグムンド王がお呼びです」
 案の定、魔道士は切迫した面持ちで言った。
「いったい、なにがあったんだ」
「竜にさらわれたあなたの腹違いの弟を助けてほしいと、〈光の妖精〉が助力を請いにきたのです」
 竜と聞き、シグルズの目が輝く。それから、初めて聞く話に関心をよせた。
「〈光の妖精〉の血を引いた弟だって?」
「ボルグヒルド王妃は、妖精の作り話だとかなりのご立腹です。いますぐ、魔道でお送りします。他の者は後からゆっくりとファグラヴェールに戻らせましょう」
「わかった」
 シグルズは嘆息して、馬から下りた。
「魔道の移動は、なるべくやりたくないんだが」
「王子が瞬間移動をお嫌いなのはよくわかっていますが、緊急事態ですので。失礼」
 魔道士がすばやく彼の腕にふれると、それまでそこに存在しなかったかのようにシグルズの姿は消えた。後を追うようにして魔道士もいなくなる。後に残された兵士たちはやや途方にくれた面持ちで顔を見合わせ、シグルズの愛馬の手綱をつかむと、〈光の妖精〉と交流があり、武道も魔道も盛んなファグラヴェール王国への道に進路を変えた。

 


 シグルズは内臓が裏返しにされたような感覚に襲われ、倒れまいと足に力を入れた。魔道による移動は、慣れぬ者に強烈な吐き気とめまいを起こす。彼は今まで幾度もこの移動をしたが、いつまでたってもこの不快感から逃れることができなかった。世界が歪み、ぐるぐると回っているような感覚が治まってくると、だれかが声を荒げているのが耳に入ってきた。
 広間の中央に、黄金の光を放つ青年がいた。青年の顔立ちは繊細でやさしげだったが、今は若緑色の瞳に怒りを宿らせている。背中まである黄金の髪が体を包む光のゆらめきに合わせてたゆたい、水中にいるかのようだ。長身のせいでほっそりしているように見えるが、肩幅は広く、体の前で組まれた腕もたくましかった。彼は王座にいるシグムンド王へ向かって、いらだたしげに話している。白髪混じりの髭を生やした荒削りな顔立ちのシグムンド王は厳しく鋭い光をはなつ薄い青色の目を〈光の妖精〉に向け、王の隣にいるボルグヒルド王妃は結い上げた黒髪をぐいと後ろにそり返らせ、薄い眉を吊り上げて薄い唇を引き結び、ギースルの話が気に入らないことを表明していた。
 シグルズは美しいなどという形容の似合う男を初めて見たなと思いながら、そばにいた人のよさそうな顔をした小柄で髪も髭も真っ白な老人のゲンドゥルに「彼が光の精か」と聞いた。
「《アルフヘイム(光の妖精の世界)》の第五王子ギースル様です」
 魔道師ゲンドゥルは答え、シグルズに銀の盃を渡した。透明な液体を飲むと、たちまち調子の狂った感覚がもとに戻っていく。シグルズは今ごろになって自分が王座のある段上の隅にいることに気づいた。
「わたしは、シグルズ王子に一緒にくる気があるのか聞きたい」
 突然、ギースルがシグルズに答えをせまった。
「すまないが、いったいどういうことなのか聞かせてくれないか」
 シグルズの言葉にギースルは仕方なさそうに説明する。
「わたしとあなたには、共通の弟がいる。名はアルヴィースといい、竜を操るグラーバク神殿の魔道士にさらわれてしまった。竜殺しのシグルズと呼ばれるあなたならば、魔道士の操る竜も殺せよう。グラーバク神殿へ一緒にきてほしい。なんとしてもアルヴィースを助けたい」
 シグルズはシグムンド王の考えも聞こうと王を見たが、彼は遠い昔の記憶を思い起こしているのか、周囲のことなど目に入らないようすで考えこんでいた。しかたなく、シグルズは言った。
「王が許可して下されば、わたしはかまわない。どのみち、竜を退治しに旅をしていたところだ」
 シグルズは王が我に返って「行け」と言ってくれるのを期待していたが、代わりにボルグヒルド王妃が土色の目を怒らせて言った。
「なにを申すか。この妖精は罠を仕掛けて、第一王子のおまえを殺そうとしているのだぞ」
 どうしてそんな考えが思いつくのかとシグルズが王妃に問う前に、怒りに身を震わせたギースルが口を開いた。
「愚かな女め。王の御前でなければ、呪いをかけてやるところだ。なにを根拠に、〈光の妖精〉の王子であるわたしの言葉を疑う」
「ファグラヴェール王国の王妃にそのような口を聞くとは、礼儀の知らぬ奴め。王の子は、シグルズしかいないわ」
 王妃は自分の産んだ子以外は、王の子ではないと断言する。
「礼儀を知らぬのは、そちらだろう。〈光の妖精〉に敬意を払わねばならぬということを、教えてやる」
 ギースルは人間に直視できぬほど、全身の光を強めた。
「魔道士たちよ、なにをしている。この気の狂った妖精を追い出しておしまい」
 恐怖に慄いたボルグヒルド王妃は目をかばいながら、魔道士たちにギースルを殺せと命じる。
「どちらもやめい」
 突然、シグムンド王が口を開いた。王妃と光の精は、はっとして身を正した。
「久しいな、ギースル。レギンレイブは息災か。今、あの頃のことを思い出していたところよ。昔は、本当にさまざまな冒険をしたものだ」
 ギースルの顔がふいに翳る。
「母は死にました。アルヴィースを守ろうとし、竜に殺されました」
「そうか」
 王は魂から吐き出すような深いため息をついた。
「わしが助けに行こう。わしとて、まだまだ竜ぐらいは殺せる」
「いいえ、我々の占いでは竜殺しのシグルズ殿がふさわしいと出ています」
 ギースルが言う。
「わたしの占いも同じです」
 段上の隅に設えた水盤で占いをしていたゲンドゥルが顔をあげ、同意する。王妃が頭に突き刺さる甲高い声をあげた。
「シグルズは、たった一人の王位継承者だぞ。それを危険にさらすのか。王はそれを許すのか」
「静まれ、ボルグヒルド。十二年前、《アルフヘイム(光の妖精の世界)》の近くで船が難波したとき、レギンレイブに助けられた。その子がわしの子であろうがなかろうが、恩は返さなければならぬ。シグルズよ、ギースル王子とともに行くがよい」
 王妃は目を剥き出した。
「あなたは、たった一人の子を危険な目にあわせるのか」
「母上、わたしは竜の血を浴び、剣を通すことができないほど皮膚が固くなっています。相手がだれであろうとわたしを殺すことはできません」
 母を安心させようとシグルズは言ったが、ボルグヒルド王妃は聞き入れなかった。どうして理解してくれないのかと、金切り声で彼を非難する。
「王妃は、少し休んだほうがよいようだ」
 シグムンド王は自分の手に負えないと感じたときいつもするように、魔道士に王妃を無理やり彼女の部屋へ連れていかせた。広間全体にほっとした空気が広がる。
「母上は、心配性すぎます。わたしを女のように扱いたがる」
 シグルズがぼやく。
「ふん、戦のひとつもできん息子はいらんわ。行ってこい、シグルズ。行って、おまえの弟を助けるのだ」





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