闇の幻影・1

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闇の幻影



 闇、闇、闇。
 どんよりと粘りつくような濃い闇。
 なにも見えない。なにも聞こえない。なのに自分の存在だけは、痛いほどはっきりと感じる。
 痛み。
 無数の赤く光る物質が、ヒルのようにうごめきながら、少年の形を作っていく。それら、ひとつひとつが、彼の心に痛みを訴える。
 イタイ、イタイヨ。
 少年は苦痛に耐えかね叫んだが、肉の塊でしかない体から声はでない。
 少しずつ、少しずつ、体が元に戻っていく。
 頭が、顔が、できあがり、ようやく少年は泣き叫ぶことができた。そして流した、血の涙を。
 どのくらい泣いていたのか、泣く事にも疲れ、いつのまにかぼんやりと空を眺めていた。なにも見えない空。本当にそこに空があるのだろうか。
 ゆっくりと少年の頭に思考が戻ってくる。
 ニゲナクチャ。
 ぼんやりと考える。
 ニゲナクチャ、ヤツラガモドッテクル。
 よろよろと立ちあがった。苦労も疲労も感じなかった。ただ恐怖だけが少年の心にあった。
 デモ、ドコヘニゲル?
 どちらを向いても闇、闇、闇。なにも見えない。なにかあるのか、なにもないのか。それさえもわからない。それでも少年は走り出した。なにも見えずに走るのは怖いが、それ以上に恐ろしいことがあった。
 また、殺されることが。
 どこまでもどこまでも少年は走った。それでも闇は変わらなかった。どのくらい走ったのか、どのくらいたったのか、それさえもわからない。
 少年は、行けども行けども、果てのない闇に圧倒されていった。
 ココハ、ドコ。ドコナノ?
 答えはない。
 闇の世界に赤い光が現れた。
 ヤツラガ、クル。
 少年は光とは反対方向に走りだした。できるだけ早く、できるだけ逃げなければ。
 遠くからなにかが聞こえる。始めはかすかに。そして、徐々にはっきりと。
 それは声だった。しきりに叫んでいる。
 コロセ、コロセ。
 喜びに満ちたヤツラの声が聞こえ、少年の全身は、恐怖のあまり冷たくなった。はるか彼方にいたヤツラが、容赦なく少年に近づいてくる。
 マタ、コロサレル、コロサレルッ。タスケテ、タスケテッ。
 どんなに叫んでも、少年を助けてくれる存在は、どこにもいなかった。
 少年はヤツラに追いつかれまいと、必死で走った。脇腹が痛み、喉が焼けつく。肺が悲鳴をあげ、頭が割れそうになる。
 イタゾ、イタゾ。
 早くも背後で声がし、少年の心臓が跳ね上がる。もう追いつかれた。周囲がヤツラの放つ赤い光に染まり、少年は猫に弄ばれるねずみのように、ヤツラの間を逃げ回った。笑い声の中で小突き回され、剣でつつかれる。少年は泣きながら助けてくれと哀願し、ヤツラは嘲笑した。
 ふいに背中から全身を貫く痛みに襲われ、少年は地面に倒れた。血が闇の中で鮮やかに輝く。この世界を彩るのは、漆黒と深紅の光だけだと、少年はぼんやりと思う。
 アカイ、アカイ。
 少年はたちまち赤く染まった。そこだけが闇の中で赤く輝き、血に酔いしれたヤツラは、興味を失って去っていく。
 切り裂かれた体だけが、闇に彩りを与える。もはや、少年は原型をどとめていない。四方に撒き散らされ、蛍のように闇の中で輝いている。
 それでも、少年は蘇ろうとしていた。赤い塊がのろのろと一点を目指して集まっていく。それは意思あるもののように、ゆっくりとゆっくりと闇の中を這い、融合し、少しずつ大きな塊となり、やがて、少年の姿へと変貌していく。
 イタイ。
 意識が戻って感じるのは、いつも苦痛。そして、死の間はまったくの闇。夢などは見ない。ただの闇。目が覚めても変わらない漆黒の闇。
 いつまでこんなことが続くのか。いつからこんな目にあっているのか。
 ワカラナイ。
 今度は身体ができあがると、すぐに起きあがった。いつも、ヤツラがくる方向とは反対に逃げようと思うが、切り裂かれた後になると、どちらから逃げてきたのかわからなくなっている。赤い光が見えてからではもう遅い。
 イツマデ、コンナコトヲ。
 そう思いながらも、走り出した。少年にはそれしかできなかった。ただ、逃げることだけしか。

 


 遠くでなにか見えたような気がして、少年は立ち止まった。赤い光かと思いぎくりとするが、そうではなかった。この世界で初めて見る異質な色だ。黒でも赤でもない別の色。
 それは遠くて小さい。それでも、闇に慣れた目にははっきりと見える。点のような光。すぐにも闇にかき消えてしまいそうなはかなげな光だ。
 ふいに消えてしまうのではという不安にせかされて、少年はそちらに急いだ。遠すぎて走っていけない距離なのはわかっている。しかし、それでも、この世界で初めて見る光に少しでも近づきたかった。
 光が新たな恐怖をもたらすのではないかという気がしなくもなかったが、なにかが変わってくれるだけでもよかった。それに、殺されるだけの永遠の繰り返し以上に、悪い事などあるのだろうか。
 また、彼方で声がした。少年は立ちすくんだ。赤い闇が現れていた。しかも白い光の方向から、わずかに離れた場所に。
 少年は方角を変えるべきか迷った。ヤツラはどんなに遠くにみえても、いつだって追いついてくる。それに対し、点のような光は、近づいたようすもない。
 わずかに躊躇した間に、ヤツラは差し迫ってきた。少年は恐怖に襲われ走り出す。
 光はヤツラの住処なのかもしれない。わざわざ餌食になりに、近づいてしまったのかもしれない。後悔の念がどっと押し寄せる。
 ヤツラの声が耳元で聞こえ、悲鳴をあげた。足をつかまれ、引き倒された。また、殺される。
 赤い血が見える。
 イタイッ。
 苦痛にうめき、殺されまいと精一杯の力で、手足を振り回す。
 なにも当たらない。いつもだったら、取り囲んだヤツラに当たるはずなのに。
 いつの間にか、目を閉じていたことに気づき、おそるおそる目を開け、周囲を見回した。
 ちらりと、青白い光が少年の視野をかすめる。さきほど少年が目指していた光だ。  ヤツラは、その光に向かっていた。
 アア、タスカッタ。
 少年は、その光が助けてくれるんだと喜んだ。少年の期待通り、その光はヤツラと戦っている。光は人の姿をしていた。銀色の長い髪で白い服を着ている。その手に持つ剣も青白く輝いている。
 キレイナヒトダ。
 ヤツラの血が見える。その中で踊るように美しい青年が剣を振るっている。
 ヤツラが悲鳴をあげている。初めて耳にする声。ヤツラが殺されることがあろうとは、思ってもみなかった。
 少年は何度も殺された。しかし、少年には、憎しみはなかった。ざまあみろという気持ちが少しもわかない。ただ殺されることが終わればそれでよかった。
 目の前で自分のものではない血が、闇の中で光っている。もう死の繰り返しはなくなった。少年の頭にはそれしかなかった。
 自分ではない者が殺戮されるのを眺めていた少年は、いつの間にか、それが終わっていることに気づいた。
 赤い光の中で、白い光が佇んでいる。青年の光だ。
 少年は、礼を言おうと立ちあがろうとしたが、苦痛のために座りこんだ。初めて目にする光景に心を奪われて、怪我の痛みをすっかりと忘れていた。
 向こうの方から近づいてくれないかと期待して、声をかけようとしたとき、青年は座りこんでなにかをし始めた。
 なんだろうと見ていると、やがて、なにか濡れた物を食べるような音が聞こえてきた。そして、ときおり聞こえる固い物を噛み砕く音。
 少年は身を堅くした。
 なんということを。この美しい青年は、ヤツラを食べている。
 ふいに青年と目があった。冷たい青い瞳。なにか赤い物を口に運んでいる。その血にまみれた口がにいっと笑い、少年の全身の力が抜けていった。希望が絶望に変わる。かすれゆく意識の中で、青年の甲高くけたたましい笑い声が木霊した。

 


「アシュアッ、アシュアッたら」
 日差しのように明るい声が、少年の意識を取り戻させた。長い長い悪い夢から覚めた気分で目を開けると、白い光に包まれた少女が闇の世界に現れていた。これは夢だろうか、それとも今まで悪夢を見ていたのだろうか。
 ダレ、ダロウ。
 いたずら好きの妖精のような少女は、頭にターバンを巻き、体に密着した白い服を着ている。少年より年上のようだ。
 ずっと、この世界には闇とヤツラしかない思っていた。それがなぜ、突然、目の前に現れたのだろう。
 少年は起き上がった。すると少女の近くに、ヤツラの赤い光があるのが目にはいる。反射的に逃げ出そうとし、彼らが動かないことに気づいた。
 ソウダ。ヤツラハ、コロサレタンダ。
 少年は、まだヤツラの死体を食べている青年の姿を目にし、今度は気を失わずに、甲高い悲鳴をあげた。
 その声に少女は仰天し、少年を見た。そして、少女の目が大きく見開き、今度は彼女が声を上げた。
「アシュアッ、死体が、生き返ってる」
 少女は、青年に助けを求めようと近づいたが、彼は食事を邪魔されたことを怒り、獣のように低くうなった。慌ててアシュアから離れ、今にも泣き出しそうな顔で、ターバンに手をやる。少年も彼女に食べられるのではと脅え、後ずさった。
「お願いだから、食べないで」
 すぐにでも逃げ出せる体勢で、少年は言った。
「冗談じゃない。あたしは、あんたなんか食べないわよ。あんた、誰なの」
 そう言われ、少年は考えた。いくら思い出そうとしても、闇の中でヤツラに追い回された記憶しか出てこない。その前はどうしていたんだろう。それとも、ずっとここでヤツラに殺されていたのだろうか。
 少女は少年をまじまじと見、それから、息を吐いて全身の緊張を解いた。
「あぁ、あんた、ユシアね」
「ぼくがユシア?」
 少年は、名前なんてあっただろうかと考え、突然、記憶の底から泡のようにユシアという名が浮かびあがった。どうして彼女は、本人さえも忘れていた名前を知っていたのだろう。恐怖心より好奇心が頭をもたげ、ユシアは聞いた。
「あなたは、誰」
 少女はユシアの質問に答えようか、少し迷ってから言った。
「マイラ」
「どうして、ぼくの名前を知っているの」
「そんなこと別にどうだっていいじゃない」
 マイラはつんとして言い、ユシアはどうして答えてくれないのだろうかと当惑した。
「よくないよ。ぼくは、どうしてヤツラに何度も殺されなきゃいけないのか、知らないんだ」
「そんなこと言ったって」
 どう答えていいのかわからないという顔をし、マイラはアシュアの方を見た。彼はまだ、ヤツラを食べるのに夢中だ。
「あの人は、誰なの? 一緒にいて危なくないの」
 彼女の視線の先をたどったユシアが、おそるおそる聞く。彼女は軽く笑った。
「あたしたちは、魔族なのよ。闇の主を倒すためにこの世界にきたの」
「闇の主って誰」
「あんたを殺す命令を出している奴」
 そこまで、誰かに憎まれるなんて……。
 ユシアにはそんなまねをされる心当たりがなく、ひどく狼狽した。それから、気を取り直して、マイラに言う。
「じゃあ、ぼくは助けてもらえるんだね」
 これでようやく恐ろしい目にあわずにすむと、ユシアは喜んだ。しかし、それに対するマイラの答えは冷酷なものだった。
「違うよ。いつか、あんたも殺なきゃいけないの」
 ユシアは落胆のあまり、よろよろと座り込んだ。
「そんな」
「殺したいわけじゃないよ。でも、やらなきゃいけない」
 マイラがつらそうにうつむく。
「どうして」
 すがるような声を少年はあげた。
「今は知らないほうがいいの」
 ききわけのない子供に言うようにマイラは言い、そこへ、やっと食べ終えたアシュアが近づいてきた。全部食べてしまったのか、十数体あったヤツラの死体は、もうどこにもない。
「お願い。なんでもするから、殺さないで」
 ユシアは追いつめられた声で哀願し、青年が氷のような碧い目で見つめた。ユシアの背筋が寒くなり、救いを求めるようにマイラを見たが、彼女は、悲しそうにそっぽを向く。
「お願い、ぼくを殺さないで」
 涙声で、ユシアは懇願する。
「今は殺さなくとも後で殺すと言ったら、どうする」
 アシュアが冷ややかに言い、少年ははっとして、青年を見上げた。
「今は、殺さないでくれるの」
「今は殺してもすぐに生き返る」
「生き返らないときがくるってこと」
「ああ」
 少年はその答えを聞き、呆然となった。二度と生き返らないときがくる。死んだらそれで終わりだ。ユシアは首を傾けしばらく考えると、決心した。
「それでも、一緒に行きたい」
 少女は驚いて声を上げるが、青年は無表情のままだ。
「どうして、殺されるのに」
 マイラが少年の気持ちがわからないというように、頭を振る。
「一人でいたら、何回もヤツラに殺されちゃうよ。そんなのもういやだ」
 自分を守るすべをもたない少年の目から、涙があふれる。ユシアは乱暴に目をこすった。
「殺す時まででいいから、一緒にいさせて。そしたら、死ぬのは一回ですむでしょ」
 ユシアは両手を差し伸べて哀願し、マイラは涙を浮かべた。
「かわいそうな子。なにも悪いことしてないのに」
 マイラはユシアを慰めるように、そっと抱き締めた。少年はその行為に驚きつつも、暖かい肌のぬくもりにうっとりした。
「好きにしろ」
 アシュアがそっけなく言い、少年の顔は輝いた。
「ところで、わかったのか」
 マイラはアシュアに聞かれ、うなずいた。
「闇の主の居場所はわかったけど、アシュアがヤツラを食べてる間に、罠を仕掛け終わっちゃったと思うよ。こんなとこで道草を食ってないで、さっさと襲撃したほうがよかったんじゃないの」
 責めるように言うが、青年は気にとめもしない。
「案内しろ」
 そのとき、闇に赤い光が射し込み、ユシアの全身から血の毛がひいた。
 ヤツラがくるっ。
「雑魚が多いな」
 アシュアが面倒くさそうに言い、銀髪をなびかせ駆け出した。闇の中で、真紅の光と白銀の光が交錯する。多勢にも関わらず、なんなくヤツラをが切り伏せていく。
 アァ、コロサレズニ、スンダ。
 ユシアは全身から力が抜け、へたりこんだ。これでもう、ヤツラにいたぶられることはない。やっと苦痛に満ちた日々が終わった。
 アシュアはまたもヤツラを食べ始め、マイラがうんざりして言う。
「いくら、飢えてるからって、敵がでるたびに食べるんじゃ、ちっとも旅が進まないわよ。よくもあんなに入るわね」




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