ラグナレク
第三章 魔がひそむ城・2 川沿いに出ると雪がなくなり、赤みを帯びた地面があらわになっていた。水の流れた跡があることから何度も洪水があったことがわかる。道を進んでいくと、生暖かい風が息のつまる腐った匂いを運んできた。アルスィオーヴがうっと声を洩らして、口を押さえる。 「ひどい匂いだな」 シグルズも顔をしかめる。 「しかし、他に道はない」 アルヴィースは匂いを感じないのか、それとも魔道で匂いをかがずに済ませているのか、平然として言う。 川に近づくにつれ、激しい水音が聞こえ大地が振動した。深紅の飛沫が岩陰から飛び散り、シグルズはとっさに剣を抜く。アルヴィースが、どうでもよさそうにそれを止める。 「川の水が岩にぶつかっているだけだ。魔物はいない」 それでもシグルズは警戒しながら、音の源に近づいた。臭気はますます強くなり、ひっきりなしに岩の崩れる音がする。荒々しい音をたて、あらゆるものを押し流す赤黒い川を目にして、シグルズはようやく剣から手離した。ときおり、巨大な肉の塊や内臓の一部らしきものが流れていく。 川上には遠くかすかに世界の中心であるユグドラシルの樹が見えた。昨夜、殺された巨人の毒血がユグドラシルをつたい、川に流れ込んだらしい。鼻をつくすさまじい腐臭に、魔物さえも川に近寄らない。 アルスィオーヴがむせかえる血臭と巨人の残骸でできた川を見て、たまらずに嘔吐する。胃液だけになっても吐き続け、ひきつったうめき声をあげる。 すぐにアルヴィースがアルスィオーヴの腕をつかみ、引きずるようにして川から離れさせる。シグルズも猛烈な吐き気と戦いながらそれを手伝うが、風は川のほうから吹いてくるため、どこまで行っても匂いは消えない。 ふいに風向きが変わり、臭気が嘘のように遠のく。シグルズはほっとして大きく息を吸い込んだ。強烈な匂いのおかげで鼻がおかしくなり、匂いが全身に染みついてしまった気がするが呼吸は楽になった。アルスィオーヴも気分が落ち着いてきたようすで、足元をおぼつかせながらも自分で歩きだす。 風には湿気が含まれていた。雲が発する赤い光が陰り、雷鳴が轟く。天空を見上げるとがっしりとした体格の雷の神フロールリジが、ミョルニールの槌を振り回しながら、二頭の山羊が引く戦車を走らせている。 また、巨人が天上に攻めてきたのか。 なにが起きたにせよ、フロールリジがまもなく嵐を起こすことは間違いない。三人は道を急いだ。毒血の流れる川が雨で氾濫する前に、安全な場所を見つけなければならない。 早くも冷たい雨がぽつりぽつりと降り出し、三人は雨に追われるように走り出した。雨足は容赦なく強まり、川の流れが激しさを増す。 「アルヴィース、魔道を使ってどうにかしてくれよ」 アルスィオーヴが雨の音にかき消されまいと大声をだした。アルヴィースは首を横に振る。 「今、使ったらフロールリジの気を引く。敵と間違われて雷を落とされたくない」 「くそっ」 アルスィオーヴは悪態をついた。 「逃げ場がないじゃないか」 見渡す限りの荒野には、高い場所がどこにもない。 「そんなことはなさそうだ」 アルヴィースは、雨の向こうで手を振っている人影を見つけて言った。シグルズが魔物ではと目で尋ねる。人が苦境に陥ったとき助けるふりをして安心させ、言葉巧みに護符を手放せてから襲う魔物がいるのだ。 「違う」 言葉とは裏腹に、アルヴィースは厳しい顔をしている。シグルズは眉をひそめたが、アルスィオーヴに腕を引っ張られ疑うどころではなくなった。アルスィオーヴが口をぱくぱくさせながら、こちらに向かってくる大きな波を指差している。 「急ごう」 三人はさらに足を早め、雨の中の人物へと急ぐ。 「こっちよ」 近づくと、一行を呼んでいたのは黒髪の少女とわかった。マントも羽織らずずぶ濡れになった彼女は、古井戸の中へ慣れたようすで降りていく。 こんなときに地下にいくとは。 シグルズは驚いて、井戸に入ろうとするアルヴィースを止めた。 「水が流れこんでくるぞ」 「彼女が我々と心中するつもりだと思うか」 アルヴィースはシグルズの手を振り払い、躊躇いなく井戸を降りていく。アルスィオーヴとシグルズは背後にせまる波に目をやり、観念した表情を浮かべて井戸の中に降りていった。
井戸の底には横道があり、少女はいらいらとしたようすでシグルズたちを待っていた。 「遅いわよ」 身振りで横道に入るように示すと、少女は壁に隠された取っ手を引いた。重々しい音を立てて、壁に見せかけた扉が入り口をふさぐ。すぐに向こうで水が流れ込む音が聞こえた。 「早く行ってよ。この扉だけじゃ、水を妨げないわ」 少女にせかされ、二人は横道を走り出した。最初に道が交錯したところで松明を持ったアルヴィースが待っている。 その先の隧道は迷路のように入り組んでいた。少女はてきぱきと道を指示し、何度か壁にみせかけた扉で道を塞いだ。やがて、道は上がり坂となり、一行は走るのをやめた。 「ここまでくれば、水はこないわ」 背中に垂らしたままの長い黒髪をかきあげ、少女は言った。大きな銀色の瞳が、松明の明かりを反射してきらりと光る。やせこけてはいたが、聡明で清楚な感じの少女だ。女好きのアルスィオーヴが「あと五年だなぁ」と呟く。 「礼を言う」 少女はシグルズの言葉ににっこりとし、首を横に振った。 「そんな必要はないわ。あなたたちはわたしを助けにきてくれたんだもの」 それから少女はアルヴィースに目をやり、頬をほんのりと赤く染めた。 「水晶で見た姿より、ずっとずっときれいだわ。ああ、本当にきてくれるなんて信じられない」 彼女は夢見るようにうっとりとして言い、涙ぐんだ。アルヴィースが形のよい眉を跳ね上げる。 「女みたいで悪かったな」 「わたし、ほめたのよ」 なぜアルヴィースの機嫌を損ねたのかわからずに、少女は当惑する。 「こいつに、きれいとか、女のようにとかは、禁句なんだよ」 アルスィオーヴが教える。 「お姫さん、元気だった? 連絡取れなくって心配したよ」 うれしそうにアルスィオーヴが言う。 「ナールが水晶を壊してしまったの」 「やはりな」 アルヴィースは呟き、少女に聞いた。 「なぜ、迎えにきたんだ? 我々がくることをどうして知っていた」 「たぶん、あそこの道を通るだろうと思って、毎日、城を抜け出して見に行ってたのよ。三ヶ月後にくるって言ってたのに、五ヶ月たってもこないんですもの。あきらめようかと思ってたところよ」 「すまない。ファグラヴェール王国からガグンラーズまでくるのに二ヶ月以上かかったんだ」 珍しくアルヴィースが素直に謝る。 「二人とも彼女を知っているようだが、紹介してくれるかな」 一度も少女を見たことがないシグルズが言う。 「ああ、兄上は会った事がなかったな。彼はわたしの兄でファグラヴェール王国の第一王子シグルズだ」 アルヴィースが少女に紹介する。 「わたしはガグンラーズ国の王女でありながら、《スヴァルトアルフヘイム(闇の妖精の世界)》の王の娘フュルギヤ。人食いの魔女、自分の親を殺した気の狂った王女フュルギヤ」 やや自棄気味にフュルギヤが名乗る。 「いきましょう。雨のせいで、体が冷えてしまったわ。城で暖まって食事をしましょう。もっとも、人の肉を食べてもよければですけどね」 人の肉と言ったとき、フュルギヤの目に追い詰められた者の悲痛な光が宿り、アルヴィースは後ろめたそうに視線をそらした。
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