ラグナレク
第四章 守る者・1 だれよりも頼りになりだれよりも信じていたナールが、とても大切にしていた水晶を壊してしまった。 フュルギヤは急に人が変わったように冷たくなったナールが立ち去った後も、信じられぬ思いで砕け散った水晶を見つめていた。 彼がだますなんて。 フュルギヤは水晶であった物の上に涙をこぼしながら、かけらを拾い集めて元の形にしようとした。だが、同じ水晶ではなかったかのように、かけらはどうやってもうまく噛み合わない。鋭い破片が手に刺さり、思わず取り落とした。破片は他のかけらに当たり、澄んだ音を立てて砕けた。その上にフュルギヤの血が落ちる。 どうやっても水晶を元に戻せない。 いきなり、一際大きな破片を手に取った。鋭い切っ先を喉に当てる。 死んでしまおう。こんな思いをしてまで、生きていたくはない。 「結婚しよう」 ふっとアルヴィースの言葉が頭をよぎる。 なんて、ひどい。なんでこんなときにそんなことを言ったの。 フュルギヤは破片を取り落とし、顔を覆って泣き出した。 あんなことを言わなかったら、今すぐ死ねるのに。こんな思いをして生きていかなくてもすむのに。 どれだけ泣いていたのか、いつのまにか泣くのをやめ、砕けた水晶を見つめていた。 もう一度、欠片を一つ一つ丁寧に集め、広げた布の上に置いていく。どんなに細かい破片も集め終わると、彼女はかけらで布が破けないように慎重に包みベッドの下に隠した。 アルヴィースがくるまでは、なんとしても生き延びなければ。 フュルギヤは顔をあげ口を引き結ぶと、忌まわしい食事をするために部屋を出た。
「なんて、いやな夢」 フュルギヤはベッドから起きあがって言った。思い出したくもないことを夢に見たせいで、全身にびっしょりと汗をかいている。すぐに服を着替え、鏡台に向かって乱れた髪をくしけずる。 いつ、眠ったのだろう? 確か、アルヴィースと魔道で菜園を作っていたはずだが、なぜベッドで寝ていたのだろうと首をかしげる。まさか、アルヴィースがきたことまでが夢なのでは。 フュルギヤはふいに不安になり、立ちあがった。戸のほうを見て、いますぐにでもナールが現れるのではとおののく。 アルヴィースがこの部屋に結界を張ってくれたはずだが、フュルギヤにはそれを感じることができなかった。アルヴィースがきた証拠がないものかと部屋を見回したが、なにも見当たらない。 フュルギヤはベッドの下から埃にまみれた布の包みを取ると、悪夢に追われるように地下へと急いだ。
地下には、みずみずしい草木が生い茂っていた。やさしい光が降り注ぎ、春のように暖かく、草花の馨しい香りが漂う。その中で、アルヴィースがぼんやりと視線を中空に漂わせ、壁に寄りかかって座っていた。フュルギヤは夢ではなかったと、その場に座りこみそうになった。 「目が覚めたのか。空腹だろう。好きな物を食べるといい」 アルヴィースがフュルギヤに気づき、菜園を身振りで示す。 「ああ、よかった」 フュルギヤは泣きながら走りより、アルヴィースにすがりついた。 「なにかあったのか?」 アルヴィースが、また〈闇の妖精〉の王が現れたのかと身構える。 「だって気がついたら、部屋にいるんだもの。あなたに会ったのは夢かと思ったわ。夢なら死んじゃおうかと思った」 その言葉を聞いて、アルヴィースは体の力を抜いた。 「なんだ。てっきり事件が起きたのかと。大丈夫、本当にわたしはここにいる。幻じゃない」 アルヴィースはさっきまでの遠くを見るような目つきに戻り、子どものようにしがみつきすすり泣くフュルギヤの背中を軽く叩いた。 「そういえば、結婚式はいつにするか決めていなかったな」 「けっこん」 フュルギヤはアルヴィースから身を離し、彼の顔をまっこうから見つめた。アルヴィースが逃げることなくその視線を受けとめると、フュルギヤの顔はだんだんと赤くなっていった。 「いやかい?」 アルヴィースの言葉にフュルギヤは首を横に振る。 「そうじゃないの。本当のことだって信じられなくって。こうなればいいって思ってたことが本当になったら、夢の出来事みたいに思えて、なにが本当でなにが夢なのかわからなくなったの」 フュルギヤは顔を押さえると、声を押し殺して泣いた。 「これで信じられるさ」 アルヴィースは首にかけていた鎖をはずし、鎖に通してあった指輪をとった。フュルギヤの手にはめてやる。 「これは母の形見なんだ。大事にしてくれよ」 「いいの? そんなに大事な物を」 フュルギヤは慌ててはずし、アルヴィースに返そうとする。 「おいおい、婚約指輪を返そうとなんてしないでくれ」 アルヴィースの言葉にフュルギヤは動転しながらも、急いで指輪をはめなおした。 「わたし、わたし」 フュルギヤは指輪を見つめて言葉を詰まらせた。またも涙が指輪の上に落ちる。 「ありがとう。とてもうれしい」 涙を流しながら笑みを浮かべて言う。 「それはよかった」 アルヴィースが珍しくやさしい笑みを浮かべ、フュルギヤの頭はくらくらとした。 「あの」 フュルギヤはしばらく黙り込んだ後、当惑気味に言った。 「なんだい」 「結婚、もう少し待ってくれる?」 「なぜ」 「だって、指輪をもらってこんなにうれしいのに、結婚なんてしたら、うれしくて死んでしまいそうだから」 アルヴィースが軽い笑い声をあげる。 「それは困るな。いいさ、きみがしたいときにしよう。心の準備ができたら言ってくれ」 「ありがとう」 フュルギヤははにかんだ笑みを浮かべ、菜園を見渡した。 「すてきなところね」 「居心地は悪くないのか」 「どうして? こんなにたくさんの食べ物に囲まれているのに」 フュルギヤは急に自分が倒れそうなほど飢えているのを感じ、めまいを起こした。 「お腹、すいたわ」 「空腹のほうが重要か。きみは、〈闇の妖精〉の血を引くのに、ここが《アルフヘイム(光の妖精の世界)》に似ていることが気にならないんだな」 アルヴィースは立ち上がって洋梨を一つ取り、フュルギヤに渡した。 フュルギヤはうっとりと洋梨にかぶりついた。罪悪感なしに食べられた頃が、遠い昔のことのように思える。 「おいしいわ、とても」 「そうかな」 アルヴィースも同じ物をとって口にする。 「やはり、まずい」 「そんなことないわ」 フュルギヤはひとかじり、ひとかじり大切そうに味わいながら食べる。アルヴィースは不思議そうな顔をしてフュルギヤを見ていたが、ふと、彼女の脇に置かれた包みに気づいた。 「これはなんだい?」 布の包みを指して言う。 「ああ、これ。いやな夢をみたせいで思い出したの。直らないかしら?」 アルヴィースの前に布を広げ、元は水晶であった物の残骸を見せる。アルヴィースは眉をひそめた。 「これはわたしが作った水晶だ。そう簡単に壊れないように作ったんだが、みごとに粉々だな」 「まぁ、そうなの。これを壊したのは、アーナ……」 フュルギヤは名前を言おうとし、アルヴィースに手で口を塞がれた。 「あいつの名前を言ってはいけない。魔力の強い者の名を言えば、呼び寄せてしまうんだ」 「ああ、ごめんなさい。つい忘れてしまって」 「破片に血がついてる」 「わたしのよ。破片を集めたとき手を切ってしまったの。血がついたら、もう直せない?」 「いや、そう難しいことじゃない。しかし、直しても今は空間が歪んでいるから、水晶で連絡を取ることはできない。それでも直すかい?」 「まぁ、悲しいわ。もう会えないなんて」 「わたしが旅に出たときは、元気だった。きみのことをとても心配していたな。そうだ。〈滅びの時〉が終わったら、魔道の塔へ修業しにこいと言っていた」 アルヴィースがくすりと笑い、フュルギヤがうんざりとした顔をする。 「わたし、〈滅びの時〉が終わっても勉強するのね」 「生きていればね」 「もちろん生きてるわよ。そのためにあなたがここにきたんでしょ」 フュルギヤが自信を持って言い、アルヴィースは苦笑いする。 「できるだけのことはするが、確実にだれも死なないとは言えない。それに、わたしは他にもやらねばならないことがあるんだ」 「《スヴァルトアルフヘイム》に行くの?」 「なぜ、それを」 「前にナールが言っていたのよ。あなたは《スヴァルトアルフヘイム》で、〈闇の妖精〉の王に殺されるって」 「殺されにいくわけじゃない。生き延びるために行くんだ」 「わたしも一緒に行っていい? 前にナールが変なことを言っていたの。わたしが世界を〈守る者〉で、世界を〈滅ぼす者〉を殺すだろうっていう予言があるって。だから、わたし、あなたの力になれると思うの」 「力になれる? きみは〈滅ぼす者〉がだれか知っているのか」 アルヴィースはフュルギヤから視線をそらして聞いた。 「知らないけど、〈闇の妖精〉の王のことでしょ。あいつ、世界を滅ぼして新しい世界を自分の物にしようとしてるから。わたしが行くのはだめ?」 「いや、一緒にきてくれるようにどうやって頼もうかと考えていたところだ。ただ、きみは自分の父親を殺すことに」 「言わないで。あんなやつ、親だなんて思ってないわ。わたしの親は死んじゃったわ。わたしの手で」 フュルギヤは自分の手を見て、涙を浮かべた。 「あれはきみの責任じゃない。〈闇の妖精〉の王が仕組んだことだ。わたしだってきみと同じ目にあえば、同じことをすると思う」 「ひどいわ。絶対にあいつを殺してやる」 フュルギヤは涙ぐみながら、両の手をきつく握り締めた。 「憎しみに捕らわれるなと、ゲンドゥルから教わらなかったか」 アルヴィースがなだめようとして言った。 「教わったわ。憎しみに捕らわれたら、〈闇の妖精〉の王の思いのままだって。でも憎まないなんてことできない」 「憎むなと言ってるんじゃない。捕らわれるなと言ってるんだ」 「よくわからないわ」 「魔道を習っているうちに、わかるようになるさ」 「わたし、どうしても魔道を習わなきゃいけない?」 魔道の生徒としてはとても覚えの悪いフュルギヤが、いやそうな顔をして言う。 「魔道を習った以上、途中でやめることはできないんだ。せめて基礎ぐらいは覚えてくれないと」 フュルギヤは大きくため息をついた。 「あなたが教えてくれるのよね」 「そうさ。わたしは、ゲンドゥルよりずっと厳しいぞ。食事がすんだら、部屋に戻って修業を始めよう」 アルヴィースの言葉に、フュルギヤは再度大きなため息をついた。
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