ラグナレク
第四章 守る者・2 アルスィオーヴが広間の人々に食べさせてやろうと葡萄を持っていくと、魔物が壊してしまったために用をなさなくなった扉の向こうで、人々は不気味な彫像のように座りこんでいた。閉じ込められているわけでもないのに、だれも広間から出ようしない。 たった一日、食べ物を与えられなかっただけで、三人が死んでいた。早くも死臭がたちこめる広間に、アルスィオーヴは顔をしかめる。 「もっと早く食べ物を持ってきてやれれば、よかったんだけどな」 人々はアルスィオーヴが抱えている葡萄をものほしそうに眺めた。だれも声にだしてほしいとも自分からもらいにこようともせず、ただただ視線を葡萄にからみつかせる。仲間が死んだことは気にしてしないようだった。長い幽閉生活の間に、感情が鈍化してしまったらしい。 人々があまりに執拗に葡萄を見つめるため、アルスィオーヴは死体を片付けるのは後回しにして葡萄を配っていった。人々はひったくるようにして受取り、むさぼるように食べてしまう。 「もっと持ってくるよ」 すぐに葡萄がなくなってしまい、アルスィオーヴは菜園に取りに行った。さまざまな果物を抱えて戻ってくると、おかしなことに今度はだれも手を出そうとしなかった。 「なんで、食べないんだよ。毒でも入ってると思ってるのかよ」 アルスィオーヴが人々を安心させようとりんごを手にとってかじると、人々はアルスィオーヴが彼らの食べ物を奪ってしまったかのように恨みの視線をむけた。 「なんだよ。おまえたちのを取ったわけじゃないって」 いささか薄気味悪く思いながら、アルスィオーヴは人々の前に果物を置いていった。人々は黙ってアルスィオーヴの一挙一動を見つめている。 「ひどいな、これは」 アルスィオーヴを手伝いにやってきたシグルズが、死体の匂いに顔をしかめる。それから、果物に手をだそうとしない人々に気づく。 「なぜ食べない?」 「知るかよ。さっきは食べたのに、今は食べねぇんだ。なにがなんだかわかんねぇよ。それより、死体を埋めてこようぜ」 アルスィオーヴは骸の両腕を持ち上げ、シグルズが足のほうを持った。軽い。ろくに食べ物を得られなかった死体は異様に軽い。二人はあまりの軽さにかえってよろめいた。 「庭に埋めるか」 「うへっ、そりゃ無理だよ。庭にはまだ魔物がいるんだぜ。死体なんかあったら、魔物が喜んで寄ってきちまう。アルヴィースのやつ、中庭の魔物を退治するのを忘れたんだ」 「しかたない。死体は別の部屋においておいて、中庭の魔物を倒そう」 「ふえ、おれたちでやるのかい。墓を掘る前に、墓に入ることになってなきゃいいけどな」 アルスィオーヴはぼやいたが、さすがに疲れ切っているアルヴィースにやらせようなどとは言わなかった。
「起きて、アルヴィース。ベッドで寝たほうがいいわ」 アルヴィースはフュルギヤに肩を揺すられ、目を覚ました。居間でフュルギヤに魔道を教えているうちに、居眠りをしてしまったらしい。 「師のほうが眠るとはな」 自嘲気味に言う。 「ずいぶん疲れてるみたいね。ちゃんと眠ったほうがいいわ」 フュルギヤが細くやさしい線の眉をひそめ、心配する。 「きみは故郷に、《スヴァルトアルフヘイム(闇の妖精の世界)》に帰りたいと思うか?」 アルヴィースはいきなり聞いた。 「ないわ。行ったことないもの。あなたは《アルフヘイム(光の妖精の世界)》に帰りたいと思うの?」 「とてもね。好きで《ミッドガルド(人間の世界)》にきたわけじゃないんだ。帰れるものなら、帰っている」 「どうして帰れないの?」 「きみの言うとおり、少し眠ることにするよ。きみはその間、この魔道の書を読んでいてくれ」 フュルギヤの質問に答えずにアルヴィースは彼女に魔道の書を渡し、寝室に入ると糸の切れた操り人形のようにベッドに倒れこんだ。
魔道の書は、最初の頁から難解だった。見たことのない言葉がびっしりと並び、フュルギヤにはなにがなにやらわからなかった。アルヴィースに教わらなければ読むこともできないと、フュルギヤは小さくうなる。 いまさら、読めないからとアルヴィースを起こすわけにもいかない。シグルズは魔道が苦手だとはっきり言っていたが、アルスィオーヴはどうなのだろう。 アルスィオーヴに読めるかどうか聞きに行こうと立ちあがったとき、ドレスから茶色の物がぽろりと落ちた。飾りが取れてしまったのかと拾うと、それは茶色の髪で星を重ねた形に編まれた物だった。魔力を感じ、アルヴィースの物がなにかの拍子にドレスにひっかかってしまったのだろうと考え、後で返そうと机の上に置いた。 「おやおや、我が最愛の娘が人間のつくった愚かな学問をまだ学んでいるとはね」 机の前に嘆かわしげなアーナルが立っていた。フュルギヤは驚いて立ちあがり、その拍子に椅子が倒れ机までもがひっくり返った。 「出てってよ。あなたの顔なんて見たくないわ」 フュルギヤは、悲鳴のような声で叫んだ。 「実の親に対して、ずいぶんつれないね。わたしはいつだって、おまえを見守ってきたじゃないか」 娘を心配するやさしい父親のように、アーナルは言う。 「なにを言ってるの。いつだってひどいことばかりだわ」 「そうかな。わたしが助けなければ、おまえは何度死んでいたことだろうね」 「死んだほうがずっとよかったわ」 「ずいぶんひどいことを言うね。おまえだって、死のうとすればいつだって死ねたのに、それをしなかったじゃないか」 フュルギヤは怒りに全身を振るわせた。 「あなたを殺すまでは死ねるものですか」 「おや、アルヴィースのために生きるんじゃなかったのかね。会って幻滅したのかな」 「そんなわけないでしょ。いちいち、うるさいわね」 「親の話を聞けないなんて困った娘だね。しかし、これだけは聞いてほしいな。その髪で作った護符はアルヴィースの恋人のものだよ」 フュルギヤは血の気が失せた顔で、床に落ちている護符を見た。 「嘘ばっかり言わないでよ」 「なんだ、騒々しいな。けんかでもしてんのか」 戸が開けられ、アルスィオーヴが入ってきた。フュルギヤはとっさに護符を拾い、かくしにしまった。 「わぁ、また出てきたのかよ」 アーナルの姿を見つけアルスィオーヴは反射的に逃げようとしたが、アーナルはにこやかに一礼して姿を消した。 「ありゃ、あっさり消えたな。お姫さん、大丈夫かい」 「平気よ。わたしを見守っているだの、今までしたことはわたしを生き延びさせるためにしたんだとか、いい加減なことを言いにきたの」 フュルギヤが青い顔をして答える。 「そんだけかい? あいつのことだから、なにかもっと引っかき回すようなこと言ったと思うけどな」 アルスィオーヴが鋭い事を言う。フュルギヤはなにも答えずにいると、アルスィオーヴは重ねて聞いてきた。 「言いたくないことかい?」 「あいつの言う事なんか信じないわ」 フュルギヤは心に湧いてきた黒い雲を打ち消すように言った。 「わかった。そんなに言いたくないなら、聞かないよ。ところで〈闇の妖精〉の王の幻がまた出たってこと、アルヴィースに言わなくちゃな。お姫さん、アルヴィースがどこにいるか知ってるかい」 「寝室で寝てるけど」 「げっ、隣の部屋にいるのに、〈闇の妖精〉の王がいても出てこないのかよ」 「なんか、とても疲れてたみたいだから」 「あー、お姫さん、おれ、調理場で飯を作って持って来たんだけどさ」 と、アルスィオーヴはまさかアルヴィースがまた倒れてるんじゃないかと心配しながら、戸を開けるときに床に置いた鍋を持ち上げた。 「皿のほうまで持ってこれなかったんだ。持ってきてくれないかな」 「いいわ」 素直にフュルギヤが取りに行くと、アルスィオーヴはすぐさま、寝室の戸を開けた。アルヴィースはベッドの上にうつぶせになっていた。身じろぎもしない。 「また発作かよ」 アルスィオーヴは自分の荷物から薬を取り出そうとしたが、見つからなかった。 「ない、そんなばかなっ。まさかもう全部飲んじまったのかよ」 そこへ「うるさいな」とアルヴィースが顔にかかった髪を払いもせず、片目だけを開けて言った。 「なんだ、寝てただけかよ」 アルスィオーヴは、心配して損をしたような顔をする。 「死んだと思ったのか」 「〈闇の妖精〉の王の幻が隣の部屋に出て騒いでたのに起きてこないから、また気を失ってるのかと思ったんだよ」 「〈闇の妖精〉の王がっ」 アルヴィースは飛び起きた。 「すまない。熟睡してしまったようだ。それで〈闇の妖精〉の王はどうした?」 「お姫さんに余計なこと言って、すぐに消えた」 「なにを?」 「知らない。お姫さんが教えてくれないんだ。おまえが聞けば、言うかもな」 「まったく、〈闇の妖精〉の王は厄介な事ばかりするな」 うんざりしたようすで、アルヴィースは枕に顔を押しつける。 「それで、薬はどうしたんだ? まさか、おまえ全部飲んじまったのか?」 アルヴィースは黙ってかくしから薬を取り出した。 「発作が起きたとき、すぐに飲めるように持ち歩いているよ」 「なんだよ。黙って取ったら、驚くじゃねぇか」 「盗みはよくないってことが身にしみたか」 にやりとしてアルヴィースが言う。 「それとこれとは違うね。宝がおれに盗んでくれって頼むんだよ。そんなことより、おれ、飯を作ったんだ。食べようぜ」 「わかった」 アルヴィースは起きあがり、服を正してから眉をひそめた。かくしに手を入れ、服のひだを広げる。 「なにしてるんだよ」 「護符がないんだ」 毛布の中にあるのかと、広げて揺らすがなにも出てこない。 「まさかディースの護符をなくしたってんじゃないだろうな」 アルスィオーヴは眉間に皺をよせて言い、アルヴィースが悪びれた顔をする。 「おまえ、そりゃまずいぜ。お姫さんが拾ったらどうするんだよ」 「だから、慌てて探しているんだ」 「あ、まてよ。もう遅いかも。おれが戸を開けたとき、お姫さん、なにか拾ってたぜ。もしかして、それじゃねぇの」 アルヴィースは、苦虫を噛み潰したような顔をする。 「姫は護符の意味を知っているだろうか」 「知らなくても〈闇の妖精〉の王が親切に、愛しい恋人を守る護符だって教えたんじゃねぇの。そうか。それで、お姫さんはやつが言ったこと、話してくれなかったんだな」 「なんてことだ」 アルヴィースが小さくうなり、アルスィオーヴは苦笑いをする。 「ちゃんとしまっておかないのが悪いよ。疑惑のもとだぜ」 「アルスィに言われたくないな。まったく」 アルヴィースは頭を抱えた。
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