ラグナレク
第五章 黄昏の世界・3 「兄上が魔道の書を読むなんて。今日、世界が滅びるのか」 夕刻、フュルギヤとローニがシグルズから魔道を教わっていると、ようやく起きてきたアルヴィースが居間の光景を見て驚いた。シグルズは魔道はわからないと言いながらもすらすらと魔道の書を読み、フュルギヤたちの質問に答えていた。魔道が専門でないシグルズは、ゲンドゥルやアルヴィースのように難解な専門用語を使わないため、フュルギヤやローニのような初心者にとっては非常にわかりやすかった。 「姫が神聖語を読めないから、代わりに読んでいるだけだ」 シグルズがいやそうに言い、アルヴィースは目を丸くした。 「姫は、読めなかったのか」 「アルヴィース、もしかして、おまえ、神聖語はだれでも読めるもんだと思ってたのかよ」 魔道の勉強には加わらず、暖炉のそばで保存食を作っていたアルスィオーヴが驚いて振り向く。 「王族はみんな読めるんじゃないのか」 アルヴィースが真顔で言い、アルスィオーヴが「おまえも、世間知らずだなぁ」とあきれた。 「神聖語を学ぶのはファグラヴェール王国ぐらいだ」 シグルズが教える。 「そうなのか?」 アルヴィースはフュルギヤに向いて言ったが、外の世界をまったく知らないフュルギヤにわかるはずもない。 「わたし、神聖語なんて知らないわ」 「覚えりゃいいさ」 アルスィオーヴは簡単に言って、暖炉にかけておいた鍋からシチューをよそってアルヴィースに差し出した。 「ほれ、飯。食ってないのおまえだけだぞ。すいぶん眠ってたけど、まだ顔色悪いぜ。これ、食ったらまた寝ろよ」 アルスィオーヴの言うとおり、休んだ後だというのにアルヴィースの顔は死人のように色がなかった。目もうつろで生気がなく、立っているのもやっとのありさまだった。妖精の力を取り戻したフュルギヤはアルヴィースの生命の灯火が消えかけているのを感じ、心配のあまり自分の命までがなくなるかのように蒼白になった。 「悪いがいらない」 アルヴィースはそっけなく言うと、ふらつきながら居間から出ていこうとし、フュルギヤが慌てて、アルヴィースの腕をつかんだ。 「どこに行くの? 今は休んでいたほうがいいわ」 「なにをそんなに血相を変えている? 菜園に薬草を取りに行くだけだ」 アルヴィースはなんでもなさそうに言ったが、その声には力がなかった。 「なにがほしいのか言ってくれ。わたしがとってくるから」 シグルズもアルヴィースのあまりの顔色の悪さを心配して言う。 「自分でできるさ。みんなして、わたしが今にも死ぬような顔をしないでくれ。ちょっと疲れているだけなんだ。薬を飲めばすぐによくなる」 アルヴィースは言ったが、だれも信じようとはしなかった。 「でもさ、おまえ、今にも倒れそうな顔をしてるぜ」 「倒れやしないさ」 アルヴィースはうるさそうに言うと、フュルギヤを振り払い、居間を出て行ってしまった。心配してついていこうとしたシグルズをアルスィオーヴが止める。 「心配性のあんたが行くと、うるさがられるよ。おれがいくから、あんたはお姫さんに魔道を教えてな」
たいしたことはないと言ってはいたが、やはりアルヴィースの体調はよくないようだった。よろめきながら廊下を歩くアルヴィースを見るに見かねて、後ろを歩いていたアルスィオーヴが身体を支えてやる。 「なんだ? 一人で歩けるよ」 アルヴィースはアルスィオーヴの腕を振り払い一人で歩こうとしたが、すぐに足をふらつかせ壁によりかかった。 「歩けてないじゃないか。強がるなよ」 アルスィオーヴがもう一度、肩を貸すと、今度はアルヴィースも逆らわなかった。 「おまえ、いつもより調子が悪いんだろ。あまり無理すんなよ」 「なぜだろう」 アルヴィースがアルスィオーヴに寄りかかり、ぽつりと言う。 「そりゃ、無理しすぎたからだろ」 「そうじゃない。ゲンドゥルからもらった薬が少しもきかないんだ」 この言葉にアルスィオーヴの心臓は冷水を浴びせられたようになった。 「アルスィ、いますぐ、わたしが死ぬみたいな顔をしないでくれないか」 アルヴィースが不機嫌に言う。 「してねぇよ。おまえ、疲れて目がかすんでるんじゃねぇの。絶対に《アルフヘイム》に帰るんだろ。それまでおまえはどんなことがあったって死にゃしねぇよ。それより、おまえ、部屋に戻って寝てたほうがよくないか。薬草はおれがとってくるからさ」 故意に明るい声でアルスィオーヴは言ったが、どことなくわざとらしくなってしまった。 「菜園のほうが《アルフヘイム》にいるみたいで、居心地がいいんだ」 「そうか」 アルスィオーヴは、アルヴィースから視線をそらして答えた。魔道師であるゲンドゥルの作った薬がきかなくなったというのに、菜園からとった薬草ぐらいでよくなるのだろうかと不安に思う。
アルスィオーヴが菜園の中を歩き回ってさまざまな薬草を集めている間、アルヴィースはマントを地面に敷き、その上に座っていたが、よほど具合が悪いのかいつのまにか横になっていた。ときおり、意識が遠のくらしく、必要な薬草はこれでいいのかと聞くアルスィオーヴに答えないことが何度もあり、アルスィオーヴをぎくりとさせた。 「これでおまえが言ったやつ、全部そろったど、この後どうするんだ」 アルスィオーヴは薬草が入った籠を手にアルヴィースに近づくと、眠っているのかアルヴィースは目を閉じていた。 「アルヴィース、眠ってるのかよ」 もう一度呼びかけたが、やはりいらえはなかった。かすかに笑みを浮かべたまま、身じろぎもしない。二度と目覚めぬやすらかな眠りについたかに見え、アルスィオーヴは籠を取り落として、アルヴィースの前にひざまずいた。 「ア、アルヴィース?」 やや声をうわずらせて名を呼びながらアルヴィースを揺すると、ようやくアルヴィースは目をあけた。 「夢をみたよ。《アルフヘイム》に帰る夢だ」 「びっくりさせるなよなぁ。おれのほうが先に死にそう」 アルスィオーヴは叫んでから、その場にへたりこんだ。 「ちょっと眠っていただけだよ」 「薬草、集めたぜ。次はどうするんだ」 さきほどから冷や冷やしどおしのアルスィオーヴはふらつきながら、籠から落ちた薬草を拾った。 「ああ、すりつぶすものと、刻むものがあるんだ」 アルヴィースは細かく指示をだし、アルスィオーヴは面倒くさいと文句を言いながらも、そのとおりに作業を始めた。 「今、ここでわたしが死んだらどうなるんだろう」 アルスィオーヴが作業する様を見ながら、アルヴィースがぼんやりと言う。 「おい、そんな弱気なこと言うなよ。死んだら、《アルフヘイム》に帰れないぜ。どうしても帰りたいだろ」 「ギースルに会いたいよ。カーラにも会いたいな。駆け落ちしてからは元気でやっているだろうか。シンフィエトリは大きくなったかな」 アルヴィースはため息をつくように言い、目を閉じた。 「アルヴィース?」 「目を閉じるたびに心配するな。少し眠るから、できたら教えてくれ」 「わかったよ」 アルスィオーヴは眠りを妨げないように静かに作業しながらも、ときたま、アルヴィースの顔をのぞきこんで生きていることを確認した。このまま、すっと死んでしまいそうで怖かった。 「アルスィオーヴ」 ふいに戸口のほうから聞き覚えのある低い声が聞こえ、アルスィオーヴは飛び上がった。 「うわっ、アーナルだっ」 見ると、菜園に入る階段に幽鬼のように青白い顔のアーナルが立っている。魔道で作られたとはいえ、〈光の妖精〉が住む《アルフヘイム》に似た菜園に、純粋な〈闇の妖精〉であるアーナルは入ってこられないらしい。 「アルスィオーヴ、こちらにくるんだ」 アーナルは怒りのこもった声で、再びアルスィオーヴを呼んだ。なにがあったのか、アーナルの顔はやつれ、髪は乱れていた。いつもめかしこんだ身なりで現れるアーナルにしては珍しいことだ。 「いやだね」 アルスィオーヴは菜園から出なければ安全だとふんで言い返した。 「いますぐ、これを飲ませなければアルヴィースは死んでしまうぞ」 アーナルは手に持った小さな壷を示し、怒鳴った。 「とかなんとか言って、だますつもりだろう」 「疑っている場合か。おまえがこれだけ騒いでいるのに、アルヴィースは目を覚まさないぞ」 アルスィオーヴはぎょっとしてアルヴィースを見た。アーナルの言うとおり、そばに〈闇の妖精〉の王がいるというのにアルヴィースは目を閉じたままだ。 「早くしろ。そんな薬草などで延命できるものか。これは長寿を約束する《ウルズの泉》だ。〈滅びの時〉のせいで、ほとんど涸れていたがこれだけは取れた。これで少しは延命できる」 《ウルズの泉》があるのは《アスガルド(神々の世界)》だ。アルスィオーヴは、それが本当なら〈闇の妖精〉が立ち入りを禁じられている《アスガルド》にまで行って取ってきたのかと驚きながら、おそるおそるアーナルに近づいた。アーナルのやつれ具合から、嘘をついているとは思えなかった。いくら〈闇の妖精〉の王とはいえ、神の領域に踏み込むには全力をつくさねばならなかったに違いない。 「その壷を下において、あんたは帰ってくれ」 結界の手前で立ち止まってアルスィオーヴは用心深く言った。 「追放された妖精の分際で、わたしに命令するのか」 アーナルは片眉を跳ね上げ、力の弱い妖精ならすくんでしまうほど怒りのこもった目で、アルスィオーヴをにらみつけた。 「あんたがそうやってぐずぐずしてる間にアルヴィースは死んじまうぜ」 「まったくなんと腹立たしいやつだ」 アーナルは苦々しく言い、壷を置くと階段を数段上がった。 「ちゃんと飲ませるんだぞ」 「あんたがへんな罠を仕掛けてなけりゃな」 アルスィオーヴは階段からアーナルの姿が見えなくなると、すぐさま壷を取り上げた。 「ほんとにおれの言う通りにするとは思わなかったな。よほど、アルヴィースに死んでほしくないんだな」 手の平にすっぽりと入るほどの大きさの壷の中には澄んだ馨しい水が入っていた。指につけてなめてみると、上等な蜜酒よりも芳醇な味が口の中に広がり、それとともに体の中から生気が湧きあがった。 「ほんとうに《ウルズの泉》みたいだ」 アルスィオーヴはさっそくアルヴィースに飲ませようと、彼を起こした。アルヴィースはうっすらと目を開けたものの朦朧としている。 「ほら、これを飲んで」 ぼんやりとしているアルヴィースは、言われるままに《ウルズの泉》の水を飲んだ。一口飲むごとに頬に赤みがさし、目に生気が宿る。 「これはなんだ」 飲み終わるとアルヴィースは自分の力で起きあがり、アルスィオーヴから壷を受け取って言った。さきほどまで彼を覆っていた死の影は、生の光に照らされすっかりと消えていた。 「《ウルズの泉》、〈闇の妖精〉の王が持ってきたんだよ」 「わざわざ《アスガルド》に行って盗んできたのか」 アルヴィースは驚いたのか感嘆したのかわからない声で言った。 「いくら〈闇の妖精〉の王でも、神々の世界に行くとはかなりやばかったろうな」 「この水にそれだけの代償がないわけがないな。なにか仕組んでいるのは確実だ」 壷を見つめ、アルヴィースは確信を持って言う。 「おれもそう思ったけどさ、飲ませないわけにはいかなかったからさ」 「その判断に礼を言うよ。さっきまで、ディースに会っていたんだ」 「げっ」 アルスィオーヴは絶句した。死者に会ったということは、アルヴィースは本当に死にかけ、死者の国に行こうとしていたのか。 「本当に危ないところだったのか」 知りたくないと思いながらも、聞いてしまう。 「らしいな。でも、ディースにまだ早いからとっとと帰れと追い返された」 アルヴィースは苦々しげに笑みを浮かべ、立ちあがった。 「心配かけたな。もう大丈夫だ」 「よかった。もうこんなに冷や冷やするの、おれいやだよ」 胸を押さえて言う。そこへ、険しい顔のシグルズが階段を駆け下りてきた。 「アルヴィース、無事か。姫が、〈闇の妖精〉の王の気配がすると言っていたんだが」 菜園を見回して言う。 「もういないよ」 アルヴィースはたいしたことではなさそうに答えた。 「なにがあったの?」 後からやってきたフュルギヤが階段のほうから、おそるおそる菜園を覗いて言う。 「わざわざ、わたしの命を延ばす薬を持ってきたのさ」 「罠じゃないの?」 「だろうな。でも、それをうまく乗り越えられるだけの力は戻ってきたよ」 アルヴィースは先ほどまで死にかけていたとは思えないほど血色がよくなった顔で言い、フュルギヤが「それでも不安だわ」と浮かぬ顔で言った。
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