ラグナレク・5−5

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ラグナレク


第五章 黄昏の世界・5



「我らの水を返せ」
 運命の女神であるウルズ、ヴェルザンディ、スクルドの三人は、中空に浮かんだまま、城を外敵から守るために張られた結界を燃え上がる炎に水をかけるように消してしまうと、城の中にいるはずの《ウルズの泉》を盗んだ者たちへ叫んだ。
 三人の女神はちらと見ただけでは見分けがつかないぐらい、その姿がよく似ていた。三人とも、若々しくあどけなく、そして、才知にあふれた厳粛な顔立ちをしている。長い黒髪を同じ形に結い上げ、同じ服を着て同じマントを着ているせいでなおさら、見分けがたかった。彼女らは普段、厳しくも運命を操る者が浮かべることのできるやすらかな表情をたたえていたが、今は憤怒の形相に変わっていた。神の時代が始まって以来、守ってきた《ウルズの泉》を盗まれ、彼女たちは怒り狂っていた。世界の終わりが近づき、ほとんど枯れかけていた最後の水が盗まれたため、その怒りは盗んだ者の運命の糸を断ち切って命を終わらせてしまうだけではおさまらないほど強かった。神を侮辱し、挑戦したととれるこの行為を許すわけにはいかない。生かし、苦しませ、おのが過ちを悔やませなければならない。簡単に殺して、死者の女神ヘルになど引き渡すものか。
 もう一度、城へ盗んだ《ウルズの泉》の水を返すよう要求したが、いらえはなかった。女神たちは戦いの神よりも運命の女神のほうが恐ろしいことを思い知らせてやろうと、中庭に降り立った。

 


 廊下を駆けていたアルヴィースは、激怒した女神が近づいてくる気配を感じ舌打ちした。
「急がなければ」
 フュルギヤも女神の気配を感じているはずだが、なぜか、前方に見える彼女の部屋から飛び出してこない。
「アルスィオーヴよ、盗んだのはわかっている。素直にウルズの水を返すがいい」
 女神たちの言葉に、アルスィオーヴの顔がひきつった。
「げっ、おれが盗んだことになってるぜ。違うって言ったら信じてくれるかな」
「普段の行いが行いだからな。信じないだろう」
 シグルズが確信をこめて言う。
「シグルズ、自信持って言わないでくれよ」
「隠れても無駄だ」
 運命の女神たち(ノルニル)が城の中に入ってくる。
「姫、なにをやっているんだ」
 時間がないとアルヴィースは、いきなりフュルギヤの部屋の戸を開けた。ドレスをあちこちにひろげた部屋のまんなかに、思案に暮れたようすのフュルギヤがつったっていた。
「アルヴィース、わたし、なにを持っていけばいいのかしら?」
 こんなときにドレス選びをしていたフュルギヤをひっぱたいてやりたいのを堪え、アルヴィースは彼女の腕をつかんで、部屋から連れ出した。
「まったく、なにをやってるんだ」
 一度も旅をしたことがないフュルギヤが、自分で旅仕度ができないのはしかたないことだと思いながらも、アルヴィースは頭に血がのぼるのを感じた。
「待って荷物がまだなの」
 怒られ泣き出しそうになりながらも、フュルギヤはまだ現状を理解していないことを言う。
「そんな時間はない。姫、いますぐ、城から出るんだ。女神たちに見つからないように、抜け道を案内してくれ」
「でも、なにも持たないで外に出るなんて」
「わかった。きみはおいていく。こっちは勝手に逃げるさ」
 アルヴィースは怒りにまかせ、フュルギヤから手を放し、彼女をおいて走っていってしまった。
「ああ、待って。抜け道はこっちよ」
 フュルギヤはやっと荷物をあきらめ、遠ざかっていくアルヴィースの背中へ叫ぶと、別の廊下へ駆け出した。

 


 外でどんな大変なことが起きているにせよ、菜園は何事もないようにとても静かだった。ローニは片隅にある岩に腰掛け、魔道の書を開いた。わずかな時間しか学べなかったというのに、基本的な文字はもう覚えていた。読めない字も、見つめているうちに光を帯び脈動し、意味するものを映像として頭の中に映しだし、ローニに教えてくれた。そうやって文字自らが語ることができるのが神聖語だった。
 ローニは文字が生命を帯びていることと、教えてくれる不可思議な意味にすっかりと夢中になり、アルイスィオーヴたちが立ち去ってしまった悲しさを忘れ、時がたつのも忘れて、魔道の書を読み続けた。

 


 フュルギヤが使われていない部屋の暖炉の中に入りこみ、壁を押すとあっさりと後ろに倒れ穴があいた。その奥には、暗く湿った通路がある。
「せまいな」
 一番身体の大きなシグルズが、最後にやや苦労しながら通り抜ける。
 フュルギヤは非常用にしまわれていた松明を通路の脇に置いてあった箱から取りだし、火打石で火をつけようとなれない手つきで苦戦していると、アルヴィースがぱっと松明を燃え上がらせた。
「複雑になっているな。どっちにいけばいい?」
 アルヴィースが明るくなった通路を見回して言う。光に照らされた通路は、巨大なもぐらがつくったように、曲がりくねり枝分かれしている。長い間、通る者がいなかったために、空気は濁り、埃がつもり、蜘蛛が好き勝手に巣を張り巡らせていた。
 フュルギヤは猫のように大きなねずみを見つけ悲鳴をあげかけたが、アルヴィースに怒鳴られそうな気がして口を押さえた。フュルギヤには、運命の女神たち(ノルニル)よりも、今にもひっぱたいてきそうなアルヴィースのほうが怖かった。
「こっちよ」
 フュルギヤは松明を掲げて、走り出した。彼女はアルヴィースに初めて直接会ったときも、こんなふうに案内したわと遠い昔のように懐かしく思ったが、移動する女神の気配を探るのに忙しいアルヴィースのほうはそんな回想に浸る余裕などなく、険しい表情で早く行けと、乱暴にフュルギヤの背中を押すばかりだった。
 進むにつれ、天井が少しずつ低くなっていった。フュルギヤ以外の者が全員、身を屈まねばならなくなるほど天井が低くなった行き止まりでフュルギヤは足を止めた。
「ここから外に出られるわ」
 天井を指差して言う。そこには、周囲の岩と同じ色をした羽目板があった。シグルズが持ち上げようとしたが、すぐに持ち上がりそうに見えた羽目板は見た目よりずっと重いらしく、わずかに開いた隙間から雪がこぼれてくるだけで、開かなかった。
「上に雪が積もっているんだ。ほかに出口はないのか」
 シグルズが開けるのをあきらめて言う。
「あるけど、戻らなくちゃならないわ」
 地上では雪が積もり、上へ持ち上げなければならない戸は、すべて開かなくなっているなどと思いもしなかったフュルギヤは困った顔で答える。
「いや、ここから出よう」
 今度はアルヴィースが羽目板の下に立つと、全身を燃え上がらせた。炎が勢いよく上昇し、羽目板を粉砕すると、その上に乗っていた雪も一瞬にして蒸発させる。
「おい、そんな目立つことをして女神たちに見つかるんじゃないか」
 アルスィオーヴが心配する。
「気づかないことを祈ってくれ」
 アルヴィースははしごがないことを不満に思いながら、出口をよじ登った。

 


 どれくらいたったのだろうか。熱中することに疲れたローニは我に返ると、魔道の書を岩陰に隠し、おそるおそる菜園を出る階段の一番上まで上がった。階段は壁に塞がれており、アルスィオーヴから教えてもらったように石壁のくぼみを押すと、壁が横に動いて出口を作った。
 ローニは女神たちがまだいるか出口からそっと覗こうと思っていたが、こともあろうに女神の一人が目の前にいた。
 女神の怒りに満ちた目とあってしまい、ローニの身体は凍りついたが、女神はふんと鼻をならすと行ってしまった。名も知れぬ子どもなど相手にする気もないらしい。
 ローニはゆっくりと息を吐き、人心地をとりもどすと、女神が立ち去った方へおそるおそる歩いて行った。廊下の角までくると、顔だけを覗かせて、女神がまだいるかどうか調べる。
 はたして、女神は廊下の先で他の女神たちと話し合っていた。城のどこをさがしても、アルスィオーヴが見つからず、外に逃げたのかもしれないと言っているのを聞き、ローニはうまく逃げたんだとほっとすると同時に、本当に行ってしまったんだという悲しさも味わった。
 女神たちが外を探すことに決め、出て行ってしまうと、ローニの全身に張り詰めていた緊張が解け、へなへなと座りこんだ。だがすぐにアルヴィースから言われたことを思いだし、大部屋へ駆け出して行く。
 女神たちは大部屋にも訪れていた。人々は女神がやってきたことに恐れおののいてはいたが、ローニと同じように女神からなんの危害も加えられていなかった。
「おお、ローニ、無事だったか」
 怪我の軽い者がローニの姿を認めるなり、抱きしめた。この者たちはよそ者であるアルヴィースたちには、偏見にしがみついた狭量な人々でしかなかったが、ローニにとっては長い監禁生活の間、〈闇の妖精〉に見つからぬよう背後に隠し、命がけで守ってくれたやさしい人々であった。
「あの罰当たりめが、女神の怒りを買ったんだ。死のうとしている者を魔道を使って生き延びさせたのが悪いんだ」
 アルヴィースのおかげで命が助かった者が、だから自分は死んだほうがよかったなどと思いもせずに言った。
「女神があの者たちを罰してくれるだろう」
「アルスィたちはなにも悪いことしてないよ」
 ローニはやさしくしてもらったアルスィオーヴたちが、悪く言われることに我慢がならず叫んだ。大人たちはなにを言うのかと不快な顔をしたが、すぐに子どもの言うことだからと笑みを浮かべた。
「おまえはやつらにだまされていたんだよ。なにかされたんじゃないだろうね」
「されないよ。本当にいい人たちなんだ」
 ローニは抱きしめていた者の腕を振り払って言った。
「今まで何度も注意したが、もう二度と、おまえだけであいつらについていってはいけないよ。女神を怒らせるほどの連中だ。どんなに悪いやつらかわかったろう」
「悪くないったら。アルヴィースは、みんなに菜園をくれたんだ。そこが一番安全だから、みんなで暮らすように言ってくれたんだよ」
 自分と意見を同じくする者がいないことを悲しく思いながら、ローニはアルヴィースたちの良さをわかってもらおうと言った。人々は魔道士からの贈り物と聞き、眉をひそめた。
「なぜ、おれたちによこすんだ」
 警戒して言う。
「城を出て行っちゃうから、好きにしていいって」
 ローニの言葉が人々に光を投げかけたかのように、彼らの顔を輝やかせた。
「連中は出て行くのか」
「もういないよ」
 歓喜に満ちた人々とは正反対に、ローニは目をふせ顔を曇らせる。
「まただまされているんじゃないか」
 長年、〈闇の妖精〉に翻弄され続けただけに、どんなことも疑わずにはいられない人々は互いに顔を見合わせた。それでも、もうこの城に魔道を使う者がいないということが人々の警戒心を緩ませ、二人が見てくると名乗りをあげた。ローニの案内でびくびくしながらも部屋を出、菜園へと行く。
 地下にできた春の世界を見て、大人たちは歓声をあげた。今の体力でできる限りはしゃぎ、果物を口にする。
「ローニ、よくやったぞ」
 彼らはローニが魔道士が隠していた宝を見つけ、自分たちの物にしたと口々にほめた。ローニが違うと言っても、彼らは聞こうともしない。
 菜園の周囲は、岩場だった。ごつごつして居心地は悪いが、そこに簡素な家を建てて住めないこともない。いや、雨が降る心配がなく暖かいのだから、暮らしやすいようにちょっとした仕切りを作るだけで充分だろう。食料も寒さにも困ることもなく暮らせると男たちは言い、さっそく、大部屋の者たちを呼びに行った。
 ローニは身に覚えのないことでほめられ、アルヴィースたちへの感謝の言葉がまるきりなかったことになんとも言いようのない不快を感じ、彼らについていくことはせず、浮かぬ顔ですでに自分の場所と決めておいた岩場の陰に入りこんだ。
 苦もなくアルヴィースに言われたことを達成できたが、どういうわけか深いため息が出てしまった。





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