ラグナレク
第五章 黄昏の世界・6 さきほどまでは晴れていたというのに、外にでると激しく吹雪いていた。風が激流のように吹き、雪は雪崩のように降り注ぐ。たえまなく降る雪が強風によって舞いあがり、赤い雲から放たれる赤い光を受けて、辺り一面を赤く染め、赤い冷たい布でくるみこむように地下の抜け道から出てきたアルヴィースたちの視界と体力を奪った。 薄い部屋着のまま外に出てしまったフュルギヤが寒さのあまり、だれかに激しく揺すぶられているように全身を震わせた。すぐにアルヴィースが自分のマントをかけてくれたが、身体の半分が深い雪に沈んでいるためたいして寒さは和らがなかった。 「いつでも旅立てる姿でいるように言っておくんだったな」 柔らかな雪の上になんなく立っているアルヴィースは独りごちると、自分の荷物をシグルズに渡しフュルギヤを荷物のように肩に担ぎ上げた。それから、皆に向かって言う。 「姫が凍える前に、どこかで服と靴を調達しよう」 「おれも凍えそうだよ。さっきまで晴れてたのに、なんで急に降るんだ。女神たちがおれたちを逃がさないようにやったのか?」 アルスィオーヴが柔らかい雪の中に腰まで沈んだ姿で、風に声が吹き飛ばされないように大声で言った。積もったばかりの雪は柔らかく、魔法が使えるアルヴィースのように、雪の上に立つ事などできなかった。 「いや、違う。世界が滅びかけているせいだ」 アルヴィースが険しい顔で天を見上げて答える。 「アルヴィース、先に行っててくれ」 アルスィオーヴと同じように腰まで雪に沈んだシグルズが言う。 「なに言うんだよ」 アルスィオーヴが仰天して叫ぶ。 「これでは雪を解かして道を作ることもできないだろう。これほど激しい吹雪なら、魔物もでないさ。吹雪の中でも動けるおまえが、先に行って吹雪をしのげる場所を探してくれ」 「わかった」 アルヴィースはフュルギヤをかついだまま、雪の上を身軽に走っていった。たちまち雪のベールの中に消えてしまい、アルスィオーヴは心細くなった。 「はぁ、アルヴィースが凍え死ぬまえに戻ってきてくれるといいけどな」 「珍しく弱気だな」 シグルズが言う。 「あんたが弱気になるようなことをしたんだよ。さぁ、とっとと歩いてくれ。じっとしてると凍っちまう」 アルスィオーヴは、シグルズの後ろに回って言った。シグルズに雪を掻き分けさせ、彼が通った跡を歩くつもりらしい。
吹雪はやむどころか、ますます激しくなる一方だった。どこまで行っても白い世界は続き、フュルギヤの頭はくらくらとした。いつまでも変わり映えのない世界に、時間の感覚が失われていく。 どれぐらい時間がたったのか、フュルギヤは熱があるのではと思わせるほど体温の高いアルヴィースに身体を密着させているおかげで凍えずにすんでいたが、ずっと同じ姿勢で担がれていたために身体がしびれてきた。アルヴィースのほうも疲れてきたらしく、走っていたのが歩きになり、その歩きもだんだんとゆっくりしたものになっていった。 「自分で歩くわ」 アルヴィースが足を止めたとき、フュルギヤはアルヴィースの背中に上半身がぶら下ったまま言った。 「もう歩く必要はない」 アルヴィースはフュルギヤを下ろすと、雪の壁を叩いた。硬い音がしたところをみると、積もった雪の下になにかあるらしい。 「だれだね」 雪の中に埋もれていた扉がわずかに開き、背が低く浅黒い男が、世界のあらゆる者を嫌悪しているような顔を出した。フュルギヤは見るのは初めてだったが、すぐに彼が黒小人だとわかった。彼らは人間より背が低くずんぐりとした体型をしており、手先が器用で鍛冶屋になる者が多かった。〈闇の妖精〉と同じように太陽の光に当たると灰になってしまうため、めったに地上に出ることはなく、地下に町を作り住んでいる。 「取引がある。中にいれてくれないか」 アルヴィースはここに黒小人が住んでいることがわかっていたらしく、動ずることなく言った。 「はん。〈光の妖精〉と〈闇の半妖精〉が一緒にいるとはね。いよいよ世界が滅びる時がきたってもんだ」 男は一瞥してそう言うと、つれなく戸を閉めようとした。 「待ってくれ。取引があると言ったろう」 アルヴィースが戸に足を挟んで引きとめる。 「あんたがおれのほしいもんを持ってるわけがねぇ」 「そうか、おまえにわたしの必要なものがつくれるわけがないな」 アルヴィースは言い返し、男は目くじらを立てた。 「なんだぁ。あんた、おれの腕を疑う気かい。このおれがつくれぬ物がないエイキンスキアルディと知って言ってんのかい」 「そんな名前、知らないな。つくれぬ物がないといったらハーナルだろう」 アルヴィースは馬鹿にしたように、有名な黒小人の鍛冶屋の名前を出した。 「はっ、はっ、あんなやつがなんだい。おれさまの足元にも及ばないね」 「へぇ、そうかい。だったら、その証拠を見せてくれよ」 「みせてやるさ」 エイキンスキアルディはまんまとアルヴィースの手に乗り、扉を大きく開けた。アルヴィースはエイキンスキアルディの気が変わらないうちにと、フュルギヤを連れて素早く入った。中は洞窟につくられた鍛冶場だった。がらくたにしか見えない物が床中に転がっており、奥にはほとんど物が入っていない棚があった。火の入った窯があるせいで夏のように熱い。 「彼女にこの寒さに耐えられる服と靴をつくってくれ」 「はん。そんなことか」 エイキンスキアルディは侮蔑したように鼻を鳴らすと、そこらに散らばっている物を窯に放り込み、アルヴィースたちに背を向けふいごを押し始めた。窯から片時も目を離すわけにいかないのか、それきり振り向こうともしない。 「わたしは、兄上たちを迎えに行ってくる。あいつがなにか馬鹿なことをしようとしたら、魔法でおどすんだ。それから、わたしが戻ってきたら、きみが戸を開けてくれ」 アルヴィースはフュルギヤにだけ聞こえるように言うと、驚いたフュルギヤがなにか言う間もなく、エイキンスキアルディに気づかれないようにそっと出て行ってしまった。取り残されたフュルギヤはどうすればいいのだろうと困惑し、エイキンスキアルディがアルヴィースが帰ってくるまでは振り向かないようにと祈りながら、身体を小さくして鍛冶場の隅に座った。
息もつけぬほど激しい吹雪になるべくあたらぬようシグルズの後ろに隠れて歩いていたアルスィオーヴは、視界の隅でなにかが動いたような気がして足を止めた。 「おい、シグルズ、なんかいるような気がしないか?」 強風に飛ばされぬように進むのが精一杯で周囲に注意を払う余裕のなかったシグルズは、足を止めて気配を探った。少し離れたところで雪が盛り上がり沈む。アルスィオーヴの顔がひきつった。 「だれだよ。吹雪だから魔物がでないって言ったのは」 「しばらく外にでないうちに、魔物は力を増したようだな。この調子では魔よけの護符もきかないだろう」 シグルズは剣を抜き、襲ってくるであろう魔物に身構えた。 「冷静に言うなよ。〈闇の妖精〉の王のばかやろう。なんだってこんな日に、外にでるように仕向けんだよ」 シグルズの背後に隠れてアルスィオーヴが、〈闇の妖精〉の王を罵る。 「しっ、騒ぐな」 耳をすますと風のうなりに混ざって、雪をかきわける音が近づいてくる。シグルズの横から雪煙があがり、白い六本の手と長い黒髪が見えた。反射的にシグルズは剣を振るい、女のような細い腕が宙を飛ぶ。灰色の血を流しながら、魔物は雪の中にもぐった。 「気をつけろ。またくるぞ」 シグルズが盛りあがる雪の動きを見ながら言う。 「わかってますって」 アルスィオーヴも声を緊張させ、剣を構えた。 雪は少し離れたところで盛り上がるのをやめた。 「どこだ」 シグルズは精神を集中させ、魔物の気配を探した。 「うわぁ」 アルスィオーヴの背後に現れた魔物は六本の腕で彼を持ち上げ、足のないムカデのような身体を雪の中から現した。長い髪に隠れた赤い口が、宙づりになったアルスィオーヴの頭に噛みつこうとする。 「こっちを食らえ」 アルスィオーヴは後ろに向けて剣を突き刺した。切っ先が魔物の頭から突き出る。力を失った魔物は雪の中に倒れ、アルスィオーヴも悲鳴をあげて中空から落ちた。降り積もったばかりの柔らかな雪が彼を受けとめる。 「おみごと」 シグルズが雪に埋もれたアルスィオーヴに手を貸そうと近づいてくる。 「おれは戦士じゃねぇんだ。褒められてもうれしくねぇよ。後ろっ」 シグルズの背後に雪煙が上がり、シグルズは振り向きざま剣を横にないだ。ムカデの身体がすっぱりと切れ、灰色の血を撒き散らしながら雪の上に倒れる。 「一匹じゃなかったのか」 すうっと連立する樹木のように十数匹の魔物が雪の中から現れた。六本の白い腕、絡み合った長い黒髪、足のないムカデのような胴体をもった魔物が、人の三倍もあろう高みからシグルズたちを見据える。 「今、アルヴィースが現れてくんないかなぁ」 アルスィオーヴが剣を構えてぼやく。そのとき「アルスィオーヴはそこにいるのか」という重々しい女の声が聞こえ、魔物たちは一瞬にしてどこかへ行ってしまった。 「おれはいねぇよ」 アルスィオーヴは剣をしまうと、観念して言った。吹雪の中に、運命の女神たち(ノルニル)が立っている。 「運命の女神たち(ノルニル)よ。《ウルズの泉》の水を盗んだのは、アルスィオーヴではなく〈闇の妖精〉の王だ」 シグルズがアルスィオーヴの前に立って言う。 「竜殺しのシグルズよ、そこをどけ。わらわたちはそこの盗人を《アスガルド(神々の世界)》に連れていき、神の王ヴァルファズルに裁いてもらわねばならん。そのあと、わらわたちが永劫の苦しみを与えてやろうぞ」 「冗談じゃねぇ。ほんとにおれは盗んでないんだっての。妖精から人間に落とされたおれが、どうやって一日でユグドラシルの根元にある《ウルズの泉》から、ガグンラーズまで行って帰ってくるんだよ」 「わらわはおまえの姿を見たぞ」 ヴェルザンディが確信を持って言う。 「とにかくおまえは、《アスガルド》までくるのだ」 女神たちがアルスィオーヴを捕まえようと近づいてくる。アルスィオーヴは逃げ出そうとしたが、すぐに雪に足をとられ転んでしまった。黒い影が彼の上に落ち、鴉の鳴き声が吹雪の音に負けずに響き渡る。 「運命の女神たち(ノルニル)よ。持ち場を離れてなにをしている。ユグドラシルが倒れたら、おまえたちの責任だぞ」 しわがれた声が上空より聞こえ、ノルニルは顔をあげた。 「ムニンか」 「そうだ、わしはヴァズファズルの僕、ムニン。わしは魔法を使ってすべてを見ていた。《ウルズの泉》を盗んだのは、〈闇の妖精〉の王アーナルだ。そしてそれを飲んだのは〈滅ぼす者〉アルヴィースだ。おまえたちは追う者を間違えている」 「どちらも世界を滅ぼさんとする者だな」 スクルドが、忌々しげに言う。 「わしはヴァズファズルに知らせる。おまえたちは自分のいるべき場に戻り、朽ちかけたユグドラシルが倒れぬよう努力するがいい」 巨大な鴉は吹雪をものともせず、飛んでいった。運命の女神たち(ノルニル)もアルスィオーヴのことなどすっかり忘れ、おのが住処へと帰っていく。 「アルヴィース、まずいんじゃねぇ」 アルスィオーヴは、濡れ衣が晴れたものの浮かぬ顔で言った。 「急ごう。アルヴィースにこのことを知らせねば」 シグルズは雪に埋もれてしまった荷物を持ち上げた。 「いやいや、それには及ばないよ」 吹雪の中に長身の男の姿が現れ、アルスィオーヴは大きくため息をついた。 「次から次へといろいろでてくる日だな。アーナル、よくもおれに罪をなすりつけてくれたな」 「盗む者は、きみと決まっているからね」 アーナルがすまして言う。 「しかし、きみも運がいいね。ムニンが見ていたとは気がつかなかったよ」 「おまえのしたことはヴァズファズルに知られた。神々はおまえの敵に回るだろう」 シグルズは睨み据えて言ったが、アーナルは堪えなかった。 「神々はもともとわたしの敵だよ。困るのはわたしと手を組んだと思われたアルヴィースだろうな。まぁ、それももうすぐ事実になるがね」 「アルヴィースはおまえなどと手を組まない」 シグルズはきっぱりと断言する。 「彼はわたしと手を組まざる得ないのだよ。神々を敵にまわして一人で生きていけるわけがないのだから」 「おまえ、こうなるとわかっててやったのかよ」 アルスィオーヴが怒鳴った。 「このわたしが、ただで彼の命を延ばしてやると思ったのかね」 「ぜんぜん、思わねぇよ」 「それはよかった。ならば、わたしがおまえたちを落とし入れようとしたこともわかっているだろうね」 「はめそこねて残念だったな。この通り、おれは運命の女神たち(ノルニル)に捕まったりしなかったよ」 馬鹿にしたようにアルスィオーヴが言い、アーナルは見下した笑みを浮かべた。 「愚かな。わたしが、ただ単におまえたちと話すためにきたと思っているのか」 「思わないな」 シグルズは剣を抜いた。 「そんな剣でわたしを倒せると思うのか。おとなしくわたしに殺されるがいい」 アーナルは魔法を使おうと右手を上げた。 突然、世界が暗くなった。上空からとてつもなく大きな枯れ枝が折れる音が聞こえ、だれもが空を見た。 「げ、ユグドラシルの枝が折れるっ」 アルスィオーヴが叫んだ途端、巨大な樹木の枝は折れ、《アスガルド(神々の世界)》の一部とともに大地に落ちた。 枝が落ちた場所はガグンラーズからはかなり遠かったが、それでも大地は嵐が起きた海のように大きく揺れた。いたるところに地割れができ、雪が奈落へ流れていく。 アーナルは上空に身体を浮かせ、声をあげる間もなく雪とともに大地の裂け目へ落ちていくシグルズたちを、冷酷な目で眺めた。 「ちっ、殺し損ねたか。しかし、奈落の底は《ニブルヘル(死者の世界)》だ。あいつらが生者を生かしておくわけがない」 アーナルはこれで邪魔者は片づいたと笑みをもらし、じきに起こる〈最後の戦い〉に備えるべく《スヴァルトアルフヘイム》に帰っていった。
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