ラグナレク・6−1

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ラグナレク


第六章 滅びの時・1



 大地を寸断した地割れは、地底の世界への入り口をつくった。最古の頃より地底に存在することがなかった雪が地上の裂け目よりなだれこみ、太古の頃に失われていた新鮮な空気が地底に吹きこんだ。
 地底から見える深紅の空は、暗闇を引き裂いた傷口のようだった。その空から赤い色に染まった雪が荒々しい風に舞いあがり地上に戻りかけては勢いを失い下降し、また舞いあがりを繰り返し少しずつ地底に降りていく。
 地震に驚いたのかそれとも雪に驚いたのか、地底にいるはずの生き物の気配はどこにもない。
 地割れの際に落ちてきた大量の土砂と雪の山がときおり崩れ、地底に音を反響させた。岩に囲まれた地底の世界はわずかな音を拡大し、恐怖を与える不快なひずみを加える。
 瓦礫の混ざった雪がますます大きな音をたてて崩れた。その中から手が現れ、肩が、顔が現れる。それは雪とともに地底に落下したジグルズだった。彼は雪の中から出てくると倒れこみ、しばらく動けずにいた。
 冷たい風と雪が彼の体力を奪っていく。シグルズは身体を起こしたが、光がほとんどないためなにも見えなかった。
「アルスィ、無事か」
 シグルズはよつんばいになると、どこかに倒れているアルスィオーヴの姿がないかと手探りで探した。
 アルスィオーヴよりも先に荷物が見つかり、彼は松明を取り出して辺りを照らした。突然の明かりに目を瞬かせながら、土砂と雪の積もった山を探すが、雪深く埋もれてしまったのかアルスィオーヴの姿はない。
「アルスィオーヴッ」
 名を叫びながら手当たり次第、雪を掘っていると、頭上から声が聞こえた。
「おおい、そこでなにやってんだよ」
 少し弱々しいが聞き覚えのある声に見上げると、アルスィオーヴが中腹より下のところで突き出た岩に服がひっかかり、宙吊りになっていた。服が破れれば、すぐさま地底に落下するだろう。
「助けに行く」
 シグルズは岩を登ろうとしたが、アルスィオーヴは「いらない」とそっけなく答えた。身体を揺らして岩壁の出っ張りにつかまると、岩にひっかかった服をはずし、するすると岩壁を降りてくる。
「やれやれ、ひどい目にあったぜ。あんたが大騒ぎするまで、ずっとあんなとこにぶらさがって気を失ってたよ」
 アルスィオーヴは胸を押さえ、足を引きずりながらシグルズに近づいてきた。
「怪我をしたのか」
「そりゃするだろ。あそこから落ちてきたんだ。死んでも不思議じゃない」
 アルスィオーヴは彼方に見える裂け目を見上げて言い、血の混じった唾を吐くと岩の上に座った。
「あんたはなんともないみたいだな。不死身はいいね」
 服が破れただけのシグルズをじろじろと見て言う。
「そうだな、竜の血をかぶったおかげだ」
 シグルズは念の為、竜の血によって鎧よりも硬くなった皮膚を調べたが、やはりどこにも怪我をしていなかった。
「それ、おれの?」
 アルスィオーヴはシグルズが手にした荷物を指差し、シグルズは思い出したように荷物から薬草を取り出した。
「いや、アルヴィースのだ。あいつが困らなければいいが」
「アルヴィースはあんたが心配しなくても、ちゃんとやってけるさ。問題はおれだよ」
 アルスィオーヴは自分の傷を調べながら言った。足はくじいただけだったが、肋骨が折れている。シグルズが薬草を塗りマントを引き裂いて傷に巻いてやる。
「動けるか」
 シグルズが尋ねるとアルスィオーヴはあきらめた顔で、「動かなきゃ、ここで凍え死ぬだろ」と立ちあがる。
「あ、あれ、おれの荷物かな。とってきてくれよ」
 岩陰に袋を見つけ、シグルズに頼む。シグルズは荷物を取ってくるとアルスィオーヴに言った。
「さすが、盗みをやっていただけあって目ざといな。これはわたしの荷物だ」
「なんだ。おれの荷物はどこにいっちまったんだ」
 アルスィオーヴが残念そうに言う。
「だれの荷物でも中身はそう変わらないさ。それよりも身体を温められる場所を見つけよう。いつまでもこんなところにいたら、凍え死んでしまう」
「え、ちょっと待てよ、おれの荷物を見つけてから行こうぜ」
 アルスィオーヴは慌てて言い、そのようすにシグルズは疑いの目を向けた。
「アルスィ、ガグンラーズで宝を盗んだな」
 シグルズは厳しい声で言い、アルスィオーヴは視線をそらしてなにも聞こえないふりをした。
「荷物に盗んだ宝が入っているから、そんなに気にするんだろう」
 シグルズに重ねて言われ、アルスィオーヴは苦笑いを浮かべる。
「別にいいじゃんか。城の連中には必要ねぇもんなんだからさ」
「我々にも必要ない。アルスィ、宝はあきらめるんだ。行こう」
 シグルズが歩き出そうとしたとき、アルスィオーヴは物音を聞いたような気がした。
「ちょっと待った」
 アルスィオーヴは聞き違いだろうかと耳をすました。遠くから、微かに濡れたものを引きずるような音が聞こえてくる。
「シグルズ、松明を消してくれ。なにか近づいてくる」
 アルスィオーヴは緊張した面持ちでシグルズの腕を引っ張り岩陰に隠れた。シグルズがいつでも剣を抜けるように柄に手をかける。
 音は非常にゆっくりと近づいてきた。ゆらゆらと揺れる青白い光が見え、近づくにつれそれは松明ではなく鬼火であることがわかった。そのあとを死者たちが歩いてくる。罪悪を犯して死に、《ニブルヘル(死者の世界)》に迎えられた亡者たちだ。身体の肉が腐り骸骨をあらわにしている者、すっかりと肉がなくなり骸骨そのものになってしまった者、まだ死んだばかりなのかほとんど生者に見える者、腐った腹に蛆をわかした者、足の骨をねずみにかじられている者、さまざまな死者が白濁した知性の光がまったくない目を中空に向け、両手が重くてならないかのようにだらりと下げ、背を丸め足を引きずりながらゆっくりとやってくる。
「ひでぇ匂いだ」
 アルスィオーヴは彼らから漂う濃厚な墓場の匂い、腐肉と黴と湿った土などが混ざった匂いをできるだけかぐまいと鼻をつまんだ。
 死者たちの歩みは非常にゆっくりとしていて、なかなかシグルズたちの近くにこなかった。雪はまだ降りやまず上空より吹きつける風は氷の刃のように冷たいため、岩陰に隠れている間に凍え死にそうだった。
 長い長い時間をかけて、ようやくシグルズたちが隠れているそばまでくると、先頭にいた死者が急に足を止め鼻穴を大きく広げてのろのろと言った。
「生者の匂いがする。こっちだ」
 死者たちはぎこちなく方向を変え、隠れているシグルズたちの方へ近づいてきた。
「うへっ、気づかれちまった」
 アルスィオーヴは観念して剣を抜いた。シグルズが先に岩陰から飛び出していく。
 死者の動きはにぶかった。瞬く間にシグルズは数人を切り倒すが、すでに死んでいる者たちは切り離された箇所を緩慢な動作でくっつけると、また飛びかかってきた。
「燃やさなきゃ無理だ」
 アルスィオーヴはアルヴィースがいれば簡単なのにと思いながら、シグルズに叫んだ。
 火に集まる虫のように、今までどこにいたのか死者たちがいたるところから、ぞくぞくと集まってくる。
「逃げるぞ」
 珍しくシグルズがアルスィオーヴより先にそう言い、死者を切り伏せながら走りだした。だが、どこまでいっても死者はいなくならない。
「なんでこんなにいるんだよ」
 剣を振りながらアルスィオーヴはぼやき、暗闇の先に大きな影が動いているに気づいた。
「シグルズ、ナグルファルの船だっ」
 アルスィオーヴは死者の爪から作った船を指差して叫んだ。わずかに宙に浮いた城のように大きな黒光りする船が何百本もの舵で空をかきながら、進行を邪魔する岩を砕いて、ゆっくりと進んでくる。甲板には大勢の武装した死者たちが船の限界まで乗っていた。あまりに多くの者が乗っているため、船が岩にぶつかって揺れるたび、縁から落ちる者が後をたたなかった。死者は悲鳴をあげることもなくまっさかさまに落ち、船に乗ることを許されず武装をすることもできなかった徒歩の死者にぶつかった。
 だが、死者は再び死ぬことはない。どちらの死者も首や手足を不気味な恰好に曲げたまま立ちあがり、何事もなかったように歩きだす。
「死者の女神の船が、こんなところに」
 シグルズは愕然とした。ナグルファルの船の船首には、半分が肉の色、半分が氷のように蒼ざめた死者の女神ヘルが立っていた。その後ろで、色白で整った顔立ちの炎の神ロプトが舵を取っている。
 この不気味な行進は、死者の軍が《アスガルド》の神々に戦いを挑もうと地上に向かっているところなのだ。
 いくら英雄と呼ばれたシグルズといえども神と戦って勝てるとは思えなかった。幸い、二人の神は地上にできた裂け目をにらみつけ、天上にいる神々への憎悪に燃えていたため、ちっぽけな二人の存在に注意を払おうともしなかった。
「こっちにくるぜ。逃げよう」
 神々が無関心でも、死者たちはそうではない。船の周囲には腐りかけた馬に乗った生前は戦士だったらしい大勢の死者たちがいた。彼らはシグルズたちに気づき馬を走らせようとしたが、のろのろと歩く大勢の死者たちが邪魔になり、思うように近づくことができずにいた。騎兵たちは愚鈍な徒歩の死者たちと違い、動きが早く頭が回りそうだ。アルスィオーヴは彼らにつかまらないよう、船がくる反対側へと走り出した。
「こっち、こっち」
 岩の割れ目を見つけたアルスィオーヴはシグルズを呼んだ。割れ目は奥のほうで狭い洞窟に繋がっている。
「地上につながっていそうか」
 シグルズの質問にアルスィオーヴは「わかんねぇよ」と答える。
「ともかくここから逃げられりゃいいんだ」
 アルスィオーヴはさっさと割れ目の奥に入ると、火打石をアルヴィースの荷物から出そうとしたが見つからず、舌打ちした。
「火の精が持ってるわけねぇな。シグルズ、おまえの荷物、こっちに投げてくれ」
 割れ目の入り口で死者たちと戦っているシグルズに向かって叫ぶ。割れ目が狭いおかげで死者は一人ずつしか入ってこれず、死者の侵入を防ぐのはシグルズだけで充分だった。シグルズは黙って荷物を放り投げ、アルスィオーヴはすぐさま荷物から火打ち石を取りだし、松明に火をつけた。
「シグルズ、ほれっ」
 アルスィオーヴは、松明をシグルズヘ投げた。彼の意図を理解したシグルズは、すぐさまそれで死者たちを燃え上がらせた。死者たちは乾いた枯れ木のようにあっという間に火に包まれ、近くにいた者を巻き添えにしていった。
「行くぞ」
 入り口が炎に包まれた隙に、シグルズは走り出した。





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