闇の幻影・3

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闇の幻影



 そう長く光の中にいたわけでもないのに、ユシアには闇がねっとりとからみつく物質のように感じられた。まるで、ゼリーの中を無理やり歩くようだ。一歩進むのに、大変な力がいる。闇をかきわけるようにして、ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。
 それが、唐突に消えた。前方だけでなく、足の下も。足場がなくなり、ユシアは声をあげる。マイラもろとも落ちていく。少し下方では、先に行っていたアシュアの落ちていく姿が見える。そして、もっと下方、穴の底には、うごめくものがびっしりとひしめきあっていた。
 それは、青白く長細い。触手の固まりといった感じだ。ユシアは悲鳴を上げながら、その中に落ちていき、途中で止まった。マイラがしっかりと崖に手をかけ、残った腕でユシアをつかんでいる。アシュアだけが、触手へと落下していく。
 ユシアは闇の中なのに、物が見えることに気づいた。光があるわけではない。空は漆黒なのに、なにもかもがはっきりと見える。
「くっ」
 少し体が下がり、マイラがうめく。
「手を放して。一緒に落ちちゃうよ」
「そんなことより、崖のどっかにつかまりなよ」
 言われて足場を探すが、切り立った壁にユシアがつかめるようなものはなにもない。
「だめだよ。手を放して」
「そうだね」
 マイラは言い、崖をつかんでいた方の手を離した。

 


 共に落下しながら、マイラが空中でユシアを抱える。たちまち触手が伸び、二人を包み込む。アシュアは、すでにがんじがらめにされていた。取り押さえられた青年は、触手に囲まれすぐに見えなくなった。
「殺されちゃうよ」
 ユシアがなんとか助けに行こうともがくが、こちらも身動きならない。マイラは声をたてて笑った。
「違うよ。こいつは、アシュアを食べようとしているんだ」
 もし動ければ、マイラは腹を抱えて笑っていたろう。それほど、おかしくてならないようだった。
「そんな、笑い事じゃ」
 抗議しようとしたユシアの声が、耳をつんざくすさまじい悲鳴に遮られた。触手から解放され、波打つ触手の上に落とされる。触手の上で、二人は嵐に揉まれる小船のようだった。大きく波打ちうねり、その上で二人はころころと転がっていく。
 触手は逃げようと、激しくもがいていた。穴一杯に広がった体は逃げる場所もなく、むなしく崖をよじ登ろうとしては、ずり落ちる。それほど長い時間、暴れ回っていたのではないのかもしれない。それでも、二人が目を回すのには十分な時間だった。触手の動きが止まったとき、二人の頭はがんがんとし、世界がぐるぐると回っていた。
「アシュアのばかぁ」
 マイラが悪態をつく。寝転んでいると触手の下から、啜る音が聞こえてくる。それに応じて、少しずつ触手の位置が下がっていく。
「アシュアは、食べ物の中に埋もれて、幸せなんだろうなぁ」
 ふらふらする頭を抱えて、マイラが起き上がる。
「そうなんだろうね」
 ユシアは応じたものの、まだ目まぐるしく世界が回り、起き上がるどころではなかった。

 


 アシュアが触手を食べ終わるまでには時間がかかり、それまでにユシアの気分もよくなっていた。あれだけの量がどうやって、アシュアの体の中に入るのかわからないが、とにかく、彼はすべてを食べてしまった。
 そして、問題がおこった。
 触手がなくなると、穴がかなり広いことがわかった。そして、その真ん中で、銀色の猫がご機嫌に鳴いている。
「アシュアァ」
 マイラがすっとんきょうな声を出した。
「こんなときに酔っぱらわないでよぉ」
と、猫を持ち上げる。猫は機嫌よく、ゴロゴロといっている。
「もしかして、これ、アシュア」
「もしかしなくてもそうなのよ。あの触手の成分に、なにかアシュアを酔っ払わせるものがあったんだわ。しょうがない。二人で出口を探そう」
 マイラはしっかりと猫を抱き締め、壁を調べ始めた。ユシアは穴を見上げたが、なにも見えなかった。もともと空は闇でしかなかった上に、穴も深い。なめらかな岩壁は登れそうにもない。
 ぐるりと回ってみた結果、ひとつだけ小さな横穴が見つかった。どうにか大人が立って歩けそうなだけの狭い洞窟。
「どうやったって、罠に決まってるんだよね」
 マイラが独りごちる。
「でも、行くしかない。行こう」
 二人並んで歩くには、狭い洞窟だった。まず、マイラが先に行き、ユシアがついていく。中もやはり、明かりがないにもかかわらず、はっきりと見える。
「見えるほうが、迷うってこともあるからね」
 マイラが言う。
 洞窟は入り組み何本にも枝分かれを繰り返していたが、マイラは猫をぬいぐるみのようにぷらぷらと振り回し、迷いもせずに進んでいく。
「ねぇ」
 狭い洞窟の中で、猫は何度もでこぼこの壁面にぶつかりそうになる。たまりかねて、ユシアは声をかけた。
「そんなに振り回して大丈夫なの。後で怒られるんじゃないの」
「大丈夫よ。酔っぱらってんだから、覚えてなんかいないって」
 振り向きざま、ことさら大きく振り回し、猫の頭が岩にぶつかった。ぎゃっと鳴きざま、マイラをひっかき走り去っていく。
「いけないっ」
 慌てて、猫を追いかける。しかし、脅えた猫の逃げ足は早く、たちまち見失ってしまった。
「アシュアァ、ごめんなさい」
 大声で叫ぶが、猫は現れない。
「怒っちゃったんじゃない。どうする」
 どうしていいかわからずに、困惑したユシアが言う。
「どうするったって。探すしかないじゃない」
 マイラも、かなりうろたえている。
「でも、こんなに入り組んでるんじゃ、無理だよ」
 ユシアは、何本にも枝分かれした洞窟を指し示した。それらは、どれも同じように見え、猫の走り去った道さえ、どれだったかわからない。
「それじゃ、どうすんのよ」
 泣きべそになって、マイラが言う。
「後で怒られちゃうよ」
「だから言ったのに」
 どうしようもなくなって、つい、マイラを責めてしまう。そんな少年をマイラが怒鳴る。
「なによ。偉そうに」
 八つ当たりされて、ユシアもむっとする。
「こんなところで、ぼくに怒鳴ったってしょうがないじゃないかっ」
「ふんっ」
 怒ったマイラは歩きだす。
「どこに行くの」
 驚いて、ユシアは尋ねる。
「逃げるのよっ。後でどんな目に合わされるかわからないもん。今のうちにここを出て逃げるの」
「謝ればいいことじゃない」
「なに言ってるの。怪我させちゃったかもしれないのよ。謝ってすむわけないでしょ。あんた、来るの、来ないのっ」
「行くよ」
 どうしようかと迷ったが、せっかくできた唯一の友達に見捨てられたくない。ユシアは、しぶしぶと応じた。

 


 またしても、行き止まり。これで、五度目だった。どういうわけかその先に出口が見えているのに、たどり着くと行き止まりになってしまう。
「あったまにくるわね。出ようとすると道が変わって行き止まりになるんだから。これじゃアシュアに追いつかれちゃうよ」
 怒りあまって、行き止まりの壁を蹴飛ばす。
「そのほうがいいんじゃないの」
 ユシアの声に、マイラはきっとにらみつける。
「なによ。あたしがひどい目にあったほうがいいってこと」
「そうじゃないけどさ。アシュアがいないとここから出れないんじゃないかな。それにまだ、あの猫のまんまで、怪我して脅えてるかもしれないし」
 マイラについてきたものの、そのことがずっとユシアの心に重くのしかかっていた。歩けば歩くほど、心が落ち着かなくなっていく。
「やっぱり、見てくるよ。ここで待ってて」
 いてもたってもいられなくなって、ユシアは駆け出した。
「なによっ、裏切り者」
 後ろから、マイラの悪態が聞こえる。友情を失うかもしれないと思ったが、それ以上に見捨てられた猫の方が、心配だった。来た道を戻る。
 どのくらい走ったのだろう。どこを探しても猫が見つかるようすもなく、ユシアは困惑した。すでに自分がどこにいるのかもわからない。マイラは怒って、探しになど来てくれないだろう。物音ひとつしない洞窟が、恐ろしくなってくる。
「アシュアッ、いい加減に出てきてよっ」
 恐怖を払いのけようと、ありったけの声で叫ぶ。狭い洞窟の中で、不気味に木霊する。ユシアは、泣きたいのを堪えた。かわりにどこからか、泣き声が聞こえる。はっと、耳をすますと、かすかな子供の泣き声が聞こえてくる。
「アシュア」
 アシュアではないかもしれない。罠かもしれない。それでも、さびしそうな子供の声に、ユシアは引き寄せられていった。何度も声のする方を通り過ぎ、ようやく岩の狭い隙間に入りこんで、泣いている幼児を見つけた。
「大丈夫だよ。もう大丈夫」
 ユシアはほっとした。銀色の髪、青い瞳、幼児になってはいたが、まぎれもないアシュアだ。手を差し伸べて、隙間から引っ張り出す。
「痛いのっ、痛いの」
 頭を押さえて、幼児が言う。そりゃそうだろうなと、ユシアは心の中で独りごちる。
「どれ、見せてごらん」
 見ると、大きなこぶができている。
「これは痛いよね」
 幼児は大声で泣き出し、しがみついてきた。
「痛いよ、痛いよっ」
「ごめんね。ぼく、なにもできないんだ」
 薬もなにも持っていない自分が、とても無力に思える。これではなんのために、助けにきたのかわからない。どうしようもなく座って幼児をしっかりと抱き締めてやる。
「ママがね。ぶったの」
 泣きじゃくりながら、幼児が言う。
「え?」
 なんのことかわからずに、少年はきょとんとする。
「化け物なんか、いらないって、ぶったの」
「アシュア、なに、言ってるの」
 ユシアは面食らって問いただす。
「殺してもね、生き返るから、嫌いだって、いっぱい、ぶつの」
 ぐずぐず言いながら、幼児が答える。
「それって、子供のときのこと。今、大人なのかわからないけど、えっと、アシュアのお母さんが、殺すの。その、何回も」
「うん。アシュア、死なないの。殺されても、死なないの」
 目に一杯、涙を浮かべて言う。ユシアの目にも涙が浮かんでいた。ぼくと同じ。ぼくはヤツラに殺された。アシュアは、お母さんに。母親というものは、普通、子供を守るものではないのだろうか。それって、ぼくよりもひどいのかもしれない。
「大丈夫だよ。もう大丈夫」
 ユシアは力をこめて、幼児を抱き締めた。そして、一緒に泣き出した。
 先に悲しみから立ち直ったのは、アシュアの方だった。
「離して」
 幼い声が言う。
「えっ、うん」
 暖かいぬくもりを惜しみながらも、手を放す。慰めたつもりが、慰められていたのかもしれない。
「こんなところで、なにをしている」
 今までとはうって変わった冷たい調子で、幼児が言う。なにか初めて見るもののように、ユシアを見ている。
「どうしたの。頭は痛くないの」
 驚いて問い返す。
「こんなところで、なにをしている」
 アシュアは繰り返す。今度は青年の姿で。幼児のアシュアと共感できたユシアは、残念に思いながら、座ったままその姿を見上げた。子供のアシュアなら、友達になれたのに。
「迎えにきたんだよ。頭打って、泣いてたから」
「頭」
 アシュアが目を丸くする。なんのことかわからないようだ。
「忘れちゃったの」
 それだったら、マイラが怒られることはないかもしれない。
「そうだ。マイラの奴」
 アシュアが言い捨てる。残念ながら、思いだしたようだ。
「あの、怒らないでくれない」
 先に行ってしまうアシュアを追いかけながら、なんとかとりなそうと試みる。
「迎えにきたって」
 アシュアが急に立ち止まったため、ユシアはぶつかりそうになった。
「えっ、あ、そうだよ」
 マイラのことではなく、ユシアが来たことについて言っているのだと気づいて、うなずく。
「なぜ」
 アシュアのけげんな顔。
「なぜって、かわいそうだと思ったから。怪我してるのに、おいてかれるのって、いやじゃない」
 青年は、不思議そうにユシアを見ている。
「いずれ、おれに殺されるのに。それとも恩を売っておけば、殺されずにすむと思ったか」
「そんなんじゃないよ」
 善意を疑われて、ユシアはふくれる。アシュアは心底驚いたようだった。
「おまえ、本当にいい奴なんだな」
 おめでたい馬鹿と言われたような気がして、なおさらユシアは機嫌を損ねた。
「本当に心配したのに」
 しゅんとしてうつむく。
「もうなんともない」
「えっ」
 やさしい声に、びっくりして顔をあげる。当惑したようなアシュアの顔。
「頭。あれくらいはすぐに治る。と、いっても一時的に記憶が後退したが」
 それでは、あの幼児が言っていたことは。
「あれって、ほんとのこと」
 おずおずと聞く。だったら、ものすごく悲しいことだ。
「そうだ。忘れろ。そんなこと」
 ユシアの思いもよそに、さらりとアシュアが言う。
「忘れろって、そんな簡単なことなの」
 ぼくには、ぜったいにそんなことは言えないとユシアは、仰天する。あの殺される苦しみ、悲しみ。ぜったいに忘れることはできない。アシュアだって、同じ苦しみを味わったはずだ。それなのに、
「いつまでも過去に捕らわれても、しかたないだろう。それよりも困った問題がある」
 本当になんでもないことのようにアシュアは、簡単に話題をかえてしまう。
「なに」
 アシュアから相談を持ちかけられるのは、初めてのことだ。なにを言うのかと、期待して先を待つ。
「おれは、おまえを殺さなければならない。なのに、恩ができた。どうやって返せばいい」
「なんだ、そんなこと。どうでもいいよ」
 ユシアはがっかりする。もっと大事なこと、例えば、この旅の相談でもされるかと思ったのだ。
「おれにとっては、どうでもいいことじゃない。なにか、おれにできることはないのか」
「そう急に言われても」
 戸惑って考え込む。
「そうだ。マイラのこと怒らないでくれない」
「もっと、大事なことでないのか」
「それでいいよ」
 アシュアは、馬鹿だなと言いたげな顔をする。
「命ごいしようとか、思わないのか」
 言われて、ユシアははっとする。
「そうか。そういうこともあったね。でも、いいや、マイラに罰を与えないでくれれば」
 生き延びたところで、独りぼっちになってしまってはなんにもならない。限りある時間を、友達と過ごすほうがずっといい。
「あんな奴、所詮、自分のことしか頭にない魔族だぞ。いざとなったら、我が身大事さに逃げ出す奴だ」
「それでもいいの。ぼくがそういうんだからいいじゃないの」
 今度は、アシュアも思っていることを口にした。
「本当に馬鹿な奴」
 彼はそう言った。




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